『アンジュー王統下のイングランド 第1巻・第2巻』 cover
アンジュー家 アウトライン

『アンジュー王統下のイングランド 第1巻・第2巻』

本書の主要部分、転換点、論点を木構造で示すアウトライン。

Norgate, Kate · 2022 · 12 min
『アンジュー王統下のイングランド 第1巻・第2巻』

ノルゲイト・ケイト著『アンジュー王統下のイングランド 第1巻・第2巻』は全27章で構成されている。本章では843年から987年にかけてのアンジュー朝の草創期を扱い、後のアンジュー権力の礎を築いた史料、遺構、政治的発展を検討する。次に987年から1044年にかけてのフランス王国の政治状況を扱い、特にアンジュー家とブロワ家の抗争に焦点を当てる。さらに本章では、初期カペー朝の権力構造を形作った軍事遠征、王朝同盟、宗教的後援について詳細に解説する。第四章** – 11世紀半ばから12世紀半ばにかけてのイングランド、ノルマンディー、フランスの政治状況の概観

第II章

本章は843年から987年にかけてのアンジュー朝の基礎期を考察し、後のアンジュー勢力の礎を築いた文書資料、物質的遺構、政治的な発展を検証する。

アンジューの黎明、843–987

この章では、ヴェルダン条約後のアンジュー伯領の台頭を追い、カロリング帝国の分裂から西フランク王国最後のカロリング王の崩御までの期間を扱う。アンジュー家の野心の政治的背景を明らかにし、メーヌ=ロワール渓谷における領土的権力の段階的な集約を説明する。

アンジュー史の史料

この章では、特許状、年代記、司教書簡を含むアンジュー初期史の文書的証拠を検証する。各種の叙述史料の信頼性と限界を評価し、歴史家たちがアンジュー初期の支配者の政治的行動をどのように再構築してきたかについて論じる。

アンジェの伯宮殿

この章では、アンジェの伯領宮殿複合体に関する建築学的・考古学的証拠を検証する。宮殿が住居および行政中枢の双方として有する重要性を探り、備考Bに記載された物質的遺構の詳細な議論を参照しながら考察を進める。

ジェフリー・グレイガウンの婚姻

この章では、ジェフリー・グレイガウンの婚姻戦略を分析する。フランク人、ブルターニュ人その他の地域の諸家系との王朝同盟がアンジュー家の領土的野心をどのように推し進めたかを検討し、これらの婚姻関係に関する専門的な分析は備考Cに記載されている。

ジェフリー・グレイガウンのブルターニュ・ポワトゥー戦争

このセクションでは、ジェフリー・グレイガウンの統治下におけるブルターニュとポワトゥーに関わる軍事遠征と外交紛争を扱う。隣接する勢力との複雑な政治関係、およびアンジュー家の影響力を拡大するために講じられた戦略について検証する。

ジェフリー・グレイガウンへのメーヌの下賜

このセクションでは、ジェフリー・グレイガウンの支配下にメーヌが移譲された経緯とその意義を扱う。この領土獲得に至った政治的交渉と軍事行動を分析し、これはアンジュー家の権力拡大における大きな節目であったことを明らかにする。

第3章

本章では987年から1044年までのフランス王国の政治状況を考察し、特にアンジュー家とブロワ家の対立に焦点を当てる。初期カペー朝の権力動向を形作った軍事遠征、王朝同盟、宗教的庇護活動について詳細に論じる。

アンジューとブロワ、987–1044

このセクションでは、10世紀末から11世紀初頭にかけてのアンジューとブロワ間の紛争の歴史的背景を提供する。987年にユーグ・カペーが即位した後、地方勢力は王権との関係を調整しつつ、自律性をますます主張するようになった。本叙述は、アンジュー伯フルク・ネラの台頭と、ブロワ伯ウードとのその後の闘争をたどり、この時代を特徴づける広範な領土・王朝間競争の礎を築き上げる。

メランの包囲戦

この章では、対立する伯たちの間の紛争において重要な拠点である戦略的要塞メランを中心とした軍事作戦を考察する。メランの包囲戦はアンジューとブロワの抗争における転換点であり、中世フランスにおける軍事技術、要塞戦、王朝的野心の交差点を示している。注記では、この遠征の年表と史料に関する補足説明を提供する。

コンスタンス王妃の両親

この章では、フランス王ロベール2世と結婚したアルルのコンスタンスの系譜と政治的意義を調査する。分析では彼女の家系を辿り、結婚が王家の連合を強化した一方で他の貴族家閥との緊張を生み出した経緯を検証する。文書では、カペー朝における正確な系譜的つながりとその政治的影響に関する学術的疑問に応える。

フルク・ネラの巡礼

この章では、アンジュー伯フルク・ネラが行った宗教的巡礼の旅を記録しており、これらは敬虔さ、政治的計算、個人的な償いの特異な融合を表している。聖地やその他の聖地への彼の巡礼は、伯爵権の構築において、敬虔な実践が精神的・政治的目的の両方に役立ったことを示している。注釈では、これらの遠征の年代、ルート、歴史的資料について詳細な検討を加えている。

ジョフロワ・マテルとポワトゥー

この章では、フルク・ネラの後を継いでアンジュー伯となったジョフロワ・マテルの統治を考察し、特にポワトゥーへの拡大に焦点を当てている。アキテーヌ公との衝突とその後のポワトゥー獲得は、西フランスの領土バランスに大きな転換をもたらした。また、ジョフロワとフランス王制の複雑な関係、およびカペー朝の公爵間関係のより広い動態における彼の役割についても分析している。

第四章

第四章** – 11世紀半ばから12世紀半ばにかけてのイングランド、ノルマンディー、フランスの政治的状況の概要。

アンジューとノルマンディ、1044~1128年

アンジューとノルマンディ、1044~1128年** – アンジュー伯の台頭、ノルマンディ掌握、イングランド王室との政略結婚をたどる。

ジェフリー・プランタジネットとブロワのステファン、1128~1139年

ジェフリー・プランタジネットとブロワのステファン、1128~1139年** – ジェフリー・プランタジネットとステファン王の対立を描き、「無政府時代(アナージー)」として知られる内戦に至る経緯を説明する。

イングランドと貴族たち、1139~1147年

イングランドと貴族たち、1139~1147年** – ステファン王の治世におけるイングランド王室と貴族派閥の関係を考察する。

イングランド教会 1136–1149

**イングランド教会 1136–1149** – イングランド教会の役割と改革、大司教の任命や教会政治などを扱う。

ノルマンディー公ヘンリー 1149–1154

**ノルマンディー公ヘンリー 1149–1154** – ヘンリー・プランタジネットによるノルマンディーの支配基盤強化とイングランド王位の主張の経緯を追う。

ヘンリーとイングランド、1154~1157年

ヘンリーとイングランド、1154~1157年** – ヘンリー2世の初期の統治、法改革、貴族との関係について詳しく説明します。

ヘンリーとフランス、1156~1161年

ヘンリーとフランス、1156~1161年** – 特にアンジュー家の領土をめぐって、ヘンリー2世とフランス王との外交・軍事活動について解説します。

第11章

大司教テオボールの最晩年 1156–1161 474 地図一覧 I. ガリア c. 909–941 107ページ見開き II. ガリア c. 1027 143 都市図 I. ウィンチェスター II. ブリストル 31ページ見開き III. リンカーン IV. オックスフォード 40 V. ロンドン 44 VI. アンジェ 165

大司教テオバルドの晩年、1156~1161年

本章の見出しは、大司教テオバルドの晩年、すなわち1156年から1161年までの期間に焦点を当てた考察を告げており、本文はこの巻の474ページから始まる。前付けページには、この広範な研究の地理的・建築的範囲を示す、作品全体に掲載されている地図と図面のリストも含まれている。

地図一覧

地図資料を列挙した前付けセクション

I. ガリア 約909~941年

この地図はカロリング朝時代(約909~941年)のガリアの領土的範囲を示している。この時期はシャルル単純王の治世最終期、ロベール家の台頭、カペー朝の成立を含み、後のフランス王国を形作る地域の政治地理における過渡期となっている。地図は107ページと見開きになるように配置されており、本書で展開される歴史的叙述の主要な参照資料としての重要性が示されている。

II. ガリア c. 1027

このセクションの2番目の地図は、西暦1027年頃のガリアを示しており、巻の143ページに対応する位置に配置されています。この地図は、約909年から941年までの前期のガリアの地図表現を補完しており、これは107ページに対応する位置のリストの前に登場します。

プラン

建築計画を列挙する前付けセクション

I. ウィンチェスター II. ブリストル

このセクションでは、巻の31ページに対応するプランI(ウィンチェスター)とプランII(ブリストル)を特定しています。これら2つの都市プランは、リンカーン、オックスフォード、ロンドン、アンジェの追加プランを含む他の地図資料とともに目録に記載されており、本書全体でそれぞれ特定のページと対応付けられています。

III. リンカーン IV. オックスフォード

このセクションでは、巻の40ページに対応するリンカーンとオックスフォードのプランを記載しています。これら2つのプランは本文に付随する一連の建築図版の一部で、その他のプランは本書全体の異なるページに掲載されています。

V. ロンドン

本書の前付には、本書に付随する一連の詳細な設計図が含まれており、その中には44ページの対向ページに配置されたロンドンの平面図が含まれている。これは、本書が本文で論じられている都市地理を読者が視覚化するために特別に作成された地図や建築図面の挿絵を収録していることを示している。

VI. アンジェ

本書の末尾には、地図や建築設計図などの一連の挿絵資料が収録されている。その中にはアンジェの平面図が含まれており、設計図一覧では項目VIとして掲載され、本文の165ページの対向ページに対応する資料となっている。

第一章。

第1章の冒頭部は、ヘンリー1世の統治期(1100~1135年)を扱う。エドワード懺悔王の临终の予言から始まり、分裂したウェストサクソン王家の系統が再接ぎされる時、イングランドは悲しみから解放される、と予言することで、アンジュー朝統治下で生まれた予想外のイングランド国民復興に焦点を当て、ヘンリー1世が王位に就くまでの経緯の背景を設定している。本章では、ヘンリー1世とその弟ノルマンディー公ロベールの間で結ばれた1101年ウィンチェスター条約の批准、イングランド貴族層の支配に向けたヘンリーの体系的な施策、ノルマンディーへの支配権を確立するためのその後の軍事行動、イングランドの属州としてノルマンディーを確立した1106年タンシェブレーの戦い、ヘンリーの統治理論、聖職者叙階権の慣行をめぐるサン・アンセルム大主教との初期の対立を記述している。第1章はまずアンセルムとヘンリー1世の間の叙任権闘争の和解を考察し、次にヘンリーの世俗統治とノルマン征服後のイングランドの行政の変遷を扱う。国王御前会議(Curia Regis)と大蔵省(Exchequer)の発展、大法官(justiciar)としてソールズベリーのロジャーの改革、そしてヘンリーの公平な統治政策下でのノルマン人とイングランド人の緩やかな融合の過程を追う。第1章では、ヘンリー1世の行政システム、現存する1130年のパイロール、12世紀のイングランドの都市の成立とその特徴を概観する。本章はソールズベリーのロジャーから受け継いだ財政行政機構から始まり、イングランドのバラの起源と特権、ラオンの正規司祭団が南部イングランドを旅する様子、12世紀のブリストルの描写へと進む。各節では、パイロールの内容、イングランド都市の特色ある発展、ギルドの成長と特許状による特権、そしてウィンチェスター、クリストチャーチ、エクセター、オールドサラム、ウィルトン、ブリストルの詳細な描写を扱う。第1章はノルマン征服後の数十年間のイングランドの主要都市を、セバーン渓谷と西部の都市からチェスター、ヨーク、北部の国境地帯、そしてリンカーンとノリッジへと移りながら概観し、ノルマン支配が貿易、防衛、教会の地理的分布をどう再形成したかを示す。第1章では、ノルマン時代のイングランドの都市生活の活発な発展を考察し、ドゥイユ家の下でのオックスフォードの復興と繁栄、首都かつ商業中心地としてのロンドンの姿の確立に焦点を当てる。本章では、これらの都市に軍事、宗教、知的、市民的、社会的な制度が根付く過程を追い、ヘンリー1世の統治期までに政治・文化センターとして機能する準備が整うまでの経緯を説明する。これは章番号5の第8章(全12フラグメント中第7フラグメント)で、タイトルは『第1章』である。本章では12世紀ノルマン朝イングランドの社会、経済、家庭生活を扱い、ロンドンにおけるノルマン市民の影響力、トーマス・ベケットの両親の家庭、フランドル人の定住と交易、ユダヤ人共同体の地位、住宅建築、服装の規範、封建的荘園構造、農奴の土地保有権と荘園の義務を対象とする。本章では、ピーターバラ修道院の『リベル・ニゲル』(『黒書』、1125年頃編纂)および当時の行政・教会記録を用いて、12世紀イングランドの農村荘園生活、農奴の法的・社会的地位、農奴が解放されるための可能な道筋、ヘンリー1世下のイングランド教会の状況、アウグスティヌス(オースティン)会正規司祭団の台頭を考察する。本章では、ヘンリー1世の統治期にイングランドに到着し、定着して影響力を高めたアウグスティヌス(オースティン)会正規司祭の歩みを、彼らが設立した修道院、関連する主要な人物、高位の主教職への登用を含めて記述する。次に、シトー会の起源、イングランドへの急速な拡がり、イングランドにおける主要な修道院の設立、その核心的な改革の原則、そして広範な…の影響を追う。

第1章。

第1章の冒頭部分で、ヘンリー1世の統治期間(1100~1135年)を扱っている。章は、ウェスト・サクソン王家の分裂した血統が再接ぎ木されるとき、イングランドの苦悩が終わることを予言する聖エドワード(コンフェッサー)の臨終の予言で始まり、アンジュー朝の統治下で生じた予想外のイングランド国民復興に焦点を当て、ヘンリー1世が王位に就くに至った事件の背景を铺垫する構成となっている。

聖エドワード(忏悔王)の予言

詳細:聖エドワード(忏悔王)の最期の予言は、当初は支離滅裂として退けられたが、1世紀後にイングランドの政治的復興を説明するものとして再解釈された。ウェストサクソン王朝の「緑の木」は征服王ウィリアムの侵攻で切り倒され、3代続いた外国人の支配者がイングランド王室の生き残った分枝をその根本から切り離した。ヘンリー1世が旧イングランド王室の血筋を引く王女エディスと結婚したことは、家系を回復する「再接ぎ」と見なされた。2人の子のうち1人であるアセリングのウィリアムは若くして亡くなったが、もう1人の子から後のイングランド支配者の家系が生まれ、エドワードに結びつけられて長く受け継がれてきたイングランドの統一と繁栄という国家的理想は、フィツエンプレス・ヘンリーの治世下で具体的な形を取り始めた。

アンジュ朝支配下の英国国民復興

異質なアンジュ政権下で英国国民復興が異例な形で台頭したことを説明し、クヌート大王が英国を自国の王国として統治したような、それ以前の異族支配の時代と対比している。アンジュ伯および国王たち(ヘンリー2世とその息子たちを含む)は英国を大陸での野望を実現するための資源、そして安全な避難所と捉え、自らの故郷とは考えていなかったため、この復興はアンジュ朝が英国のアイデンティティに完全に同化したエドワード1世の治世になるまで完成しなかった。この復興におけるヘンリー1世の役割を理解するには、アンジュ朝の起源と、アンジュのヘンリーが初めて英国王位に就いた時点での英国の状況という文脈が必要であると述べている。

ウィリアム・ルフスの果たせなかった帝国野心

ウィリアム・ルフスがスコットランドからピレネー山脈に至る海峡を越えたノルマン帝国の建設を試みて失敗した経緯を述べる。1100年、アキテーヌ公は十字軍参加の担保として自らの領土をルフスに提供した。ルフスはすでに兄ロベールからノルマンディー公国を獲得し、メーヌ伯領を再征服していたため、アキテーヌを受け入れればほぼ連続したノルマン支配領域が誕生するところだった。ルフスは「次のクリスマスの祝宴はポワティエで開催する」と冗談を言ったが、その同じ日の夕方にニューフォレストで殺害され、計画は頓挫した。ロベールは十字軍から帰還してノルマンディーを奪還したが、イングランドの貴族たちはロベールを排除し、イングランド生まれの弟ヘンリーを国王に選出した。

ヘンリー1世の幼少期と権力への台頭

ヘンリー1世の幼少期と権力への道筋を辿る:イングランドでウィリアムとマティルダの子として生まれた彼は、在位中の国王と王妃の間の唯一の息子だったが、父の遺産からは除外され、1万ポンドの現金遺産のみを受け取った。その後、資金難の兄ロベールからコタンタン、アヴランシュ、モンサンミッシェルを3000ポンドで買い取ったが、ウィリアム・ルーファスが彼のイングランド領地を没収した後、ロベールに投獄された。釈放後はルーファスに反対してロベールを支持したが、兄弟は後にヘンリーから領地を奪うことを共謀し、モンサンミッシェルを15日間包囲する事態が発生。ヘンリーは降服し、領地を失い、少数の従者と共にフランスとヴェクサンを放浪した。その後、ドンフロンの戦略的要塞を、市民が圧政を敷く領主に反乱を起こした後に掌握し、ノルマンディーに権力基盤を築き、1095年にウィリアム・ルーファスの家臣となり、ロベールに対抗してルーファスのために戦った。

ヘンリー1世の性格と政治的手腕

ヘンリー1世の性格を分析し、向こう見ずな兄弟ウィリアム・ルーファスとロバートと対比する。ヘンリーは現実的で冷徹、計算高い「ビジネスマン」であり、ロマン主義や騎士道的精神的理想とは無縁で、並外れた自制心と高い勤勉さを備え、これらの特性は兄弟たちに完全に欠けていた。当時の一般人としては十分な教育を受けており、生涯にわたって文学への関心を保ち、コタンタンの購入から跡取りの結婚の取りまとめに至るまで、あらゆるやり取りを取引的に捉えていた。冷静で理性に基づいた性質から、当時の政治的危機に対処するのに唯一適した人物だったが、偉大な指導者に求められる情熱的な理想主義は備えていなかった。

ヘンリー1世の即位と戴冠改革

1100年にウィリアム・ルーファスが突然死した後、ヘンリー1世が速やかに政権を掌握した経緯を記す:財務省の支配権を確保し、主要な貴族や高位聖職者の支持を得て、反対派が組織する前に戴冠した。イングランド王位を主張するノルマンディーのロバートからの挑戦を見越して、彼は戴冠憲章を発布し、兄のウィリアム・ルーファスの不当な統治の廃止を約束した。具体的には、教会の自由を回復し聖職者の売買を禁止すること、騎士奉公を行う地主の直轄領地への追加課税を免除すること、封建貴族が被領主に行う不当な搾取(後見制度の濫用、強制結婚、不当な償金・財産没収)を禁止すること、ウィリアム征服王が修正したエドワード懺悔王の法律を復活させることを掲げた。また、広く国民から嫌われていた大臣ラルフ・フランバードを投獄し、追放されていた大主教アンセルムを呼び戻し、旧イングランド王家の子孫であるスコットランドのエディス(エドギス)と結婚することで、自身の国民からの支持を固めた。

ノルマンディーのロベールの侵攻とオールトン条約

ノルマンディーのロベールによる1101年のイングランド侵攻を記述している。ラルフ・フランバードがノルマンディーに脱出し、イングランド沿岸の水夫たちに、予定されていた上陸地点のペヴェンジーではなくポーツマスにロベールを上陸させるよう説得したことがきっかけだった。ヘンリー1世はイングランド国民の支持を得るため、戴冠憲章を更新した。彼はイングランド生まれの国王で、イングランド王室の王女を妻にしていたため国民は彼に忠誠を誓っていたが、大多数のノルマンディー貴族は当初ロベールを支持していた。両軍はオールトンで対峙したが、大主教アンセルム、忠誠を誓う貴族たち、あるいはヘンリー自身の助言により、対立は平和的に解決された。オールトン条約では、ロベールはイングランド王位の請求権を放棄する代わりに、イングランドから年賜金を受け取ることになった。ヘンリーはドンフロンを除くすべてのノルマンディー領土を放棄した。ドンフロンの市民はロベールにヘンリーを引き渡すことを拒否した。また兄弟は、どちらかが他方より長く生き延びた場合、相手に嫡出の子がいなければその支配地を相続することで合意した。

第1章。

本章では、ヘンリー1世とその弟ノルマンディー公ロベールの間で結ばれた1101年のウィンチェスター条約の批准、イングランドの男爵団を支配するためのヘンリーの体系的な施策、ノルマンディーへの支配権を主張するその後の軍事遠征、イングランドの属領としてノルマンディーを確立した1106年のティンチュブレーの戦い、ヘンリーの統治理念、そして聖職叙任の慣習をめぐるS.アンセルム大主教との初期の対立を記述する。

ウィンチェスター条約批准

ヘンリー1世とノルマンディーのロベールの間で結ばれた条約は、1101年8月初旬、赤衣王(ルーファス王)の没日のほぼ1周年の時期にウィンチェスターで批准され、イングランドへの最後のノルマン人侵攻を正式に終結させた。

男爵支配の解決に失敗した条約

カーン条約と同様、ウィンチェスター条約はノルマン男爵層の統制という核心的課題を解決するには至らなかった。条約の条項をめぐって相反する歴史的記述が存在する。1つの説では、イングランドでロベールを支持したため没収刑に処された者、またはノルマンディーでヘンリーを支持したため没収刑に処された者が、いずれも処罰されないことを定めていたとされる。一方、より確からしいとされる記述では、兄弟2人は海峡の両岸にいる裏切り者の処罰で協力することで合意したとされている。

ヘンリー1世による男爵への処罰

ヘンリー1世は正式な法的プロセスを通して、イングランドの男爵層の違反者を組織的に処罰した。一部の者には多額の罰金が課され、他の者たちは位を剥奪されて国外追放された。彼はこうした措置を、自分個人への冒涜ではなく、王国の平和と秩序に対する反逆罪への報いであると位置付けた。グラントメスニルのイヴォーは隣人に対して私的な戦争を仕掛けたため、破産寸前までの多額の罰金を課された。このような行為はノルマンディーでは一般的だったが、ヘンリーの治世下のイングランドでは前例のないものだった。

ベールレームのロベールの反乱と降伏

イングランド、ノルマンディー、ポンチューに領地を持つ有力な辺境領主ベレームのロベールは、公然の反乱に備えてブリッジノース城とアランデル城の防御を強化していたところ、イングランド王かつノルマンディー公であるヘンリーに対する45件の反逆罪で裁判に出廷するよう召喚された。裁判を欠席したため、彼はヘンリーによるブリッジノース包囲戦に直面し、同城は3週間で降伏した。シュルーズベリーとアランデルもこれに続いて降伏し、ロベールは自身の身の安全を確保するため、イングランドの全領地を差し出した。

ヘンリーの確立された支配とロベールの義務不履行

ベールレームのロベールが降伏したことで、イングランドにおけるヘンリー1世の支配は完全に確立された。しかし、ヘンリーの兄であるノルマンディー公ロベールはウィンチェスター条約に基づく義務を果たそうとしなかった。イングランドから追放された貴族たちは謀反の罪をノルマンディーにまで持ち込み、放任主義のロベールはヘンリーに忠誠を誓うノルマンディー人たちの土地を荒らすのを許した。

1103年以降の紛争のノルマンディーへの移行

1103年以降、ヘンリー1世とその兄ロベールの主な対立は完全にノルマンディーへと移った。ベールレームのロベールが追放されたことで、ヘンリーのイングランドの臣下たちは彼の支配が安定したことを認識した。一方、ロベールはヘンリーのノルマンディー支持者たちを荒らす反逆貴族たちを処罰することを拒否したため、公国の秩序を回復できるのはヘンリーの直接介入だけであることが明らかになった。

ヘンリー1世の1104年ノルマンディー介入

ヘンリー1世は1104年にノルマンディーに到着し、そこでノルマンディー公国の穏健派の男爵たちが彼に合流した。ロベールの改革の約束とエヴルー伯領の割譲により一時的に宥められたが、すぐに弟とのさらなる妥協は無益だと結論づけた。

ヘンリー1世の1105年の侵攻と同盟

1105年の四旬節最終週、ヘンリー1世はノルマンディーの支配者となるという固い決意のもとバルフルールに上陸した。直ちにノルマンディー派の支持者たちが彼に集結し、やがて2人の貴重な同盟者が合流してきた。1人はメーン伯エリアス、もう1人は若きアンジュー伯ジオフロワであり、後者はヘンリーの予定の娘婿である。

バイユーとカーンの陥落

ヘンリーのアンジュー家とメーヌ家の同盟者がバイユーを陥落させ、初の大勝利を収めた。バイユーは教会もろとも焼き尽くされ、その滅亡を知ったカーンは抵抗なく降伏したため、ヘンリーはノルマンディーの国庫を掌握することができた。

ファレーズ包囲戦の失敗

フォワシー包囲戦はエリアス伯が理由もなく突如退去したために失敗し、紛争は緩やかに長引いた。ヘンリーが聖ミカエル祭にイングランドへ戻り、聖アンセルム大司教の帰還を優先した交渉に臨むまで、その膠着状態が続いた。

ヘンリー1世の1106年ノルマンディー遠征

前年、ベールムのロベールとノルマンディーのロベールの両方が和平条件を求めてイングランドを訪れた後、ヘンリーは翌夏、聖アンセルムと和解し国内の懸念から解放されてノルマンディーに帰還し、公国の支配権を巡る最終的な闘争にすべての精力を注ぐこととなった。

タンシェブレーの戦い

1106年の聖ミカエル祭の前夜、ヘンリー1世がタンシュブレー城を包囲していたところ、ノルマンディー公ロベールが全軍を率いて到着し、ヘンリーに包囲を放棄するよう命じた。ヘンリーはこれを拒否し、ノルマンディー全土の行政と司法をヘンリーが掌握する共同統治という最終的な妥協案をロベールに提示したが、ロベールはこの提案を却下した。その後激化した戦いでは、ロベール軍は歩兵の数で優位にあったが、ヘンリー軍はノルマンディー貴族の精鋭に加え、アンジュー、メーヌ、ブルターニュの同盟軍を擁し、騎士の数で勝っていた。戦いの形勢が逆転すると同時にベールムのロベールは逃亡し、これによりロベール軍は崩壊した。ヘンリーはノルマンディー公、モルタン伯、およそ400人の騎士、1万人の歩兵を捕虜にし、自軍の損害は極めて少なく抑えた。

タンシェブレー戦勝の意義

1106年のタンシェブレーの戦いは、1066年のノルマン征服を覆し、ノルマンディーをイングランドの従属国と位置付けることとなった(それまではその逆だった)。ヘンリー1世の治世は当初、個人的な利益のための外国戦争に明け暮れているように見えるかもしれないが、彼の遠征の最終的な目的は平和と秩序の確立にあり、その国内政策・外交政策はノルマン男爵とそのフランスの同盟者による圧政からイングランド人を解放することと不可分に結びついていた。

ヘンリー1世の統治理論

勇敢な兵士であり熟練した指揮官でもあったヘンリー1世は、遠征の目的を名誉の獲得や領土の拡大には求めなかった。彼の真の目的は平和と秩序の確立にあった。彼は、弟のウィリアム・ルフスがそうだったように恐怖によって支配するのではなく、すべての領民のために秩序・正義・平和を守り続けることが統治者の権威を最も強固なものにすると信じていた。彼は身分や国籍の別なくすべての人々に正義を平等に適用し、ノルマン男爵とその同盟者に対して生涯をかけて闘争したことが、彼の着実で公平な統治の基盤となった。

ヘンリー1世とアンセルムの叙任権争議

1103年以降、ヘンリー1世は25年前から欧州で続いていた叙任権闘争に、イングランドでも直面することとなった。ヘンリーは当初、父ウィリアム征服王の「父祖の慣習」を支持し、国王が教皇との通信、教会会議の布告、王室使用人に対する教会の譴責を管轄する権限を認めていたが、1075年のラテラン公会議布告で指輪と杖による聖職者の世俗叙任を禁じる命令への服従を主張するS.アンセルム大主教と対立した。この争議はイングランドで広範な民衆や教会内の分派抗争に発展するものではなく、大半の一般人や聖職者らは国王と大主教の個人的な衝突と捉えており、彼らの最大の関心はアンセルムが前期に追放された際のように大主教が空位になる事態を再び避けることにあった。

第1章。

第1章はまずアンセルムとヘンリー1世の間の叙任権闘争の解決を検証し、次にヘンリー1世の世俗統治とノルマン征服後のイングランドの行政の変遷を扱う。また、国王裁判所(Curia Regis)と財務府(Exchequer)の発展、首席判事(justiciar)ソールズベリーのロジャーの改革、そしてヘンリー1世の公平な統治政策下で進んだノルマン人とイングランド人の緩やかな融合の経緯を追う。

アンセルム・ヘンリー1世教会妥協

アンセルムとヘンリー1世の紛争の解決は、礼儀正しい交渉の模範として提示され、教皇と皇帝の大陸における争い、後のベケットの紛争と好対照をなしている。2年間、この紛争は教会の運営を妨げることはなかった。アンセルムは自らの管轄下の司教を統治し、ヘンリーの全面的な同意のもとで改革に尽力し、聖職者たちは貴族との闘争において王に忠実に味方した。アンセルムの立場が耐え難いものになった後でさえ、彼は全財産を所有したまま出国し、ブルゴーニュから所属する教会参事会と司教たちに活発に書簡を送り続け、王とマティルダ王妃とは友好的な交流を保った。アンセルムが最終的に破門を仄めかしたとき、それは平和を得るための計算された手段であり、ヘンリーがノルマンディーで進めていた準備に呼応するものだった。この妥協により、叙任の形式は認められたが、実質は王の支配下に留まった。ヘンリーは司教選出に対する実質的な影響力を保持し、司教たちが世俗の領地に対して行う臣従礼が、儀式的叙任の放棄と相殺された。教会は王の専制政治の及ばない領域の承認と、教会関連の事案における教皇庁の上訴管轄権の認知を得た。この解決は、ウィリアム・ランフランク体制の最終的な崩壊を先取りするものだった。そしてヘンリー2世の治世下で眠っていた紛争が再発すると、アンセルムとヘンリー1世の冷静なノルマン人的気質と、トーマス・ベケットの情熱的なアンジュー家的気質の違いが、その紛争をはるかに激しい憎悪を帯びたものにした。

ヘンリー1世の世俗統治

ヘンリーの世俗政策は、その教会政策と同様、一貫した原則に基づいていた。当初はイングランドの臣民に頼らざるを得なかったが、ヘンリーはその立場を徹底的に受け入れ、完全に捨てることはなかった。彼の戴冠憲章は「ウィリアム王が修正したエアドワード王の法」を遵守することを誓約し、征服者ウィリアムの妥協と統合の事業を継続することを義務付けていた。教会問題は、国王が当面の事実として直面している多くの社会的・政治的問題の中で、最初の、そして最も顕著なものに過ぎなかった。ヘンリーは、時期が熟しておらず、自分が立法者でも独創的な思想家でもなかったため、それらの問題を理論的、体系的に解決しようとはしなかった。彼は明晰で賢明な実践的な実業家であり、まさにその時代にふさわしい人物だった。前後の時代と比べて彼の治世は外見上「取るに足りない時代」のように見えるが、父の仕事を完成させ、孫の仕事への道を整える本質的な過渡期であった。

征服後の行政発展

1107年の妥協の後、ノルマン統治の世俗的側面が明確に表れるようになると、征服者ウィリアムの死去以降の行政発展の度合いは驚くべきものがある。王権は旧来の形式的な拘束でさえも超越していた。大評議会は立法や統治の実質的機能を失い、「助言」は空虚な言葉に、「同意」は単なる形式的なものとなっていた。この議会は評議会というよりも裁判所として機能し、構成員は国王の直属領主(テナント・イン・チーフ)の資格を有していた。司教たちは古来の精神的統治機関ウィタンの直系の後継者としての尊厳を保持していたが、1107年の妥協は彼らに世俗領地を貴族の臣従礼によって保有することを強制し、この規則を世俗の構成員にも適用することとなった。ウィタネゲモットは次第に、財務と司法行政を自らの手に集中させる常設の大臣機関を形成する側近の助言者集団に取って代わられた。

国王裁判所と大蔵裁判所の役割

この中核内閣機関は二つの側面で機能していた。一つは国王最高裁判所である国王裁判所(Curia Regis)として、古イングランドの貴族スィーンの裁判所だったウェイテナジェモット、ノルマン人の直接封臣の封建裁判所の司法権を吸収した最高司法機関としての側面。もう一つは大蔵裁判所(Exchequer)として、保安官から王室の歳入を受け取り、課税を審査し、王国の財政業務を統括する裁判所としての側面である。ノルマンの司法・軍事・社会組織は財政基盤の上に成立していたため、大蔵裁判所はこの全体制度を研究するための主要な手段を提供し、大蔵裁判所と国王裁判所の機能の密接な重複から、両者を分離することは困難だった。両者はほぼ同じ構成要素から成っていた:判事長、蔵相、国璽大臣、警備長官、軍務長官、そしてその部下たちである。これらは君主の個人的な随員から国家の官吏へと成長した役人たちであった。この制度はウィリアム・ルフスの治世の暗い時期に、ラルフ・フランバードの下で成熟し、判事長がその長として、国王の面前では権力において国王に次ぐ者、国王不在時には国王の代理人兼首席大臣として機能した。

ソールズベリーのロジャーの改革

フランバード失脚後、この職はリンカーン司教ロバート・ブロエットを経て、極めて貧しい出自から成り上がったソールズベリーのロジャーの手に渡った。ロジャーはヘンリーがカーンを出て若き日に放浪していた際、ミサを急いでいた貧しい司祭として出会い、兵隊のチャプレインとして登用され、ヘンリーの執事となり、その完全な信頼を獲得した。ヘンリーの即位直後に大法官に任命され、国王の印璽、チャンセリー事務官、王室の会計、文書のやり取り、命令状の管理を統括した。ウィリアム・ギファードとヴァルドリックによって任期が中断された後、1106年にヴァルドリックがラオンに昇任したのを機に大法官職に復帰し、1107年にソールズベリー司教兼ジャスティシア(首席判事)に就任するために辞任した。ジャスティシア兼司教として、彼は訓練された行政官集団の模範であり指導者だった。この集団は主に事務官で、そのうち数人は彼の親族、ほぼ全員が封建貴族や民衆とは異なる官位身分を形成する「新興官僚」であり、特に当時の危機的状況下で国政を運営するのに最適な人材だった。彼がジャスティシアとして成した最大の業績は、エクスチェカーの整備だった。エクスチェカーは年2回、市松模様のテーブルを囲んで保安官と会計を精算し、王国の財政状況の徹底的な審査を行った。エクスチェカーは州の年貢、固定税率で徴集されたデーン税(デネゲルド)、都市「援助税」、世襲税・後見権収入・婚姻料・無主地収入などの封建収入、森林法による収入を審査した。その財政業務は国王裁判所(キュリア・レジス)の司法業務と密接に連携していた。国王裁判所は国王または首席ジャスティシアの下で、最高控訴裁判所および第一審裁判所として機能した。土地の状態や耕作面積、森林の変化に合わせてドームズディ書に基づく課税評価を調整するため、エクスチェカーの裁判官たちは司法巡回の際に国王裁判所の判事を務め、州会で国王訴因を審理し、地方と中央の司法制度を結び付けた。これは下位と上位の行政組織の隔たりを埋める最初の一歩となった。

ヘンリー1世下でのノルマン・イングランド融合

ロジャーとその行政機構は別のカーストであり、封建貴族にも民衆にも同様に嫌われていた。ヘンリーが後年、大陸生まれの外国人をノルマン人にもイングランド人にも等しく高位に登用することを好んだことで、さらなる反感を買った。ノルマン征服以来、「ノルマン」と「イングランド」という言葉には新たな意味が込められるようになった。征服者の追従者の子孫たちはノルマンとしての誇りを保っていたが、イングランドに根を下ろすようになり、多くはイングランド人妻や母を持っていた。一方で征服者の後継者たちの戦争は、ノルマンディーをノルマン王国から切り離した。すでにルーファスの治世には、イングランド王の支持者は区別なくイングランド人と見なされ、タンシュブレーの戦いはイングランドの勝利と数えられ、以後ノルマンディーは外国の属領とみなされるようになった。サン=ドニの修道院長シュジェールは、ルイ6世がノルマンディーからヘンリーを追放する試みを正当化する際に、「イングランド人がフランス人を支配すべきではなく、フランス人がイングランド人を支配すべきでもない」という理由を掲げ、この対比を鮮やかに示した。イングランド人オルデリックは、オルレアン出身のフランス人の息子で、イングランド人妻を娶り、ノルマンのサン=エヴル修道院で生涯を過ごしたが、この始まりつつある融合の典型である。彼は生涯、母の国を自分自身の国と見なすことをやめなかった。ヘンリーの政策全体は、公平な国内統治とフランスおよびアンジューとの関係を通じて直接、また「見知らぬ者」を優先して自分たちが差し置かれるという共通の不満を通じて間接的に、この融合を進めた。鎖の最初の環は年々強固になっていき、ヘンリー最大の采配である、後継者と定められた娘とアンジュー伯爵との結婚は、両者にとって同様に異質な君主に立ち向かうため両勢力を統一することを促し、両民族の融合を加速させた。

第一章。

第一章では、ヘンリー1世の行政システム、現存する1130年のパイプ・ロール、12世紀におけるイングランドの都市の台頭とその特性を概観する。本章はロジャー・オブ・ソールズベリーから受け継がれた財政・行政機構から始まり、次いでイングランドのバラの起源と特権に移り、ラオンの聖職者たちが南部イングランドを旅する様子を追い、12世紀のブリストルの描写で締めくくられる。個別の節では、パイプ・ロールの内容、イングランドの都市の特色ある発展、ギルドの成長と特許特権、そしてウィンチェスター、クライストチャーチ、エクセター、オールド・サラム、ウィルトン、ブリストルの詳細なスケッチを扱う。

ヘンリー1世の行政システムと1130年のパイプロール

ヘンリー1世とソールズベリーのロジャーは、国王裁判所(Curia Regis)と財務府(Exchequer)を通じて、公的業務の全分野と社会の全階級を王室に結びつけた。この制度はロジャーの大甥が書いた『*Dialogue*』で詳しく説明されており、ヘンリー1世の治世に唯一現存する1130年ミカエル祭のパイプ・ロールによって、実際の運用の様子が示されている。この帳簿は折りたたむと管のような形になることからその名が付き、大蔵官によって毎年作成された。この帳簿の最大の価値は、単なる財務の総額よりも、各項目の周囲に記された個人的・社会的な詳細にあり、その治世の社会状況を他に例のない視点で明らかにしている。

ヘンリー1世の財政収入の慣行

1130年のパイプロールから、人間生活のほぼ全ての出来事が王室収入の源に換えられていたことが示唆されるが、デーンジェルドを除けば直接税は存在せず、予算は封建的な徴発と、定期的で比較的公平な基準で評価された雑多な臨時収入で構成されていた。記録されている項目には、官職への就任・離任の支払い、相続人が相続権を取得するための支払い、未成年者の後見人を希望する者の支払い、相続人や持参金付きの未亡人と結婚するための支払い、相続人や未亡人が自分たちの夫を自由に選ぶための支払いなどがある。一部の支払いは物納であり、猟犬、軍用馬、鷹が用いられ、時にはその色に関する条件が付されていたこともある。土地所有者は土地交換の許可、交換の確認・取消、訴訟の迅速化・延期、権利主張のための支払いを行い、勝者も敗者も国庫に支払っていた。ユダヤ人の金貸しはキリスト教徒から債務を回収するための王室の支援に対して支払いを行い、グロスターの市民はアイルランドで取り上げられた金を回収するために銀30マルクを支払うことを約束していた。

イングランドの都市の起源と初期構造

イングランドの都市は起源と歴史において、イタリアやガリアの都市と根本的に異なっていた。後者はローマの「娘都市」であり、蛮族の征服や封建的な再編成を経ても、ローマの都市伝統を守り続けたからである。イングランドのバラ(中世特権都市)には帝国的な過去がなく、元々は普通の農村集落と区別がつかなかった。ウィンチェスターやヨークのようなローマ軍営跡の壁内に収まっていても、オールド・サラムのような古代の丘の要塞の上に築かれていても、ウェールズ人やデーン人に備えて建てられた要塞の周りに集まっていても、ベヴァリー、マルムズベリー、オックスフォードのような大聖堂の周りに集まっていても、バラと小集落(ハムレット)の違いは規模だけだった。単に異常に大きなタウンシップにすぎず、時には堀や柵、城壁を備え、あるいは有機的な一体性を伴わずに統合されたタウンシップの集まりで、各構成部分は独自の教区、集会、リーヴ(中世の市長役人)を保持し、一方でバラの総合会議(borough-moot)は百人区裁判所(hundred-court)に従属していた。初期の大都市は元々自由だったが、貴族の館や大修道院の周りに発達した後期の都市は、最初から土地の領主に従属しており、領主に服従と奉公の義務を負い、領主が任命したリーヴを迎え入れていた。他の領主を持たない都市は王領と見なされ、その最高行政官は王の役人で、通常ポート・リーヴと呼ばれた。この称号の最初の音節は、町全体を指す使われ方もするが、本来は*porta*(門)すなわち市場を指し、これこそが都市に最も重要な地位を与えた特徴だった。

都市の自治権とギルド組織の成長

ノルマン征服は都市の交易上の重要性を大幅に高め、都市内では共同生活の意識と結束の意識が育まれ、国家における独立した要素として認識されるようになった。この区別は財政面で、都市の利益と各州の利益を切り離すことで明確に示された:規模と富に応じて変動する固定の「援助」がデーンガエルドに代わり、都市の州の年貢(フェルム)への拠出額は、保安官が、あるいは特別な特権により都市自身が*firma burgi*の名で支払う固定金額として確定された。商人ギルドはこの頃、大交易都市の交易を管轄する法的な組織体として現れ、ギルド館(「ハンス館」)を保有する権利の確認は、都市が特権と憲章を獲得するための闘争の中心的主柱となった。手工業者たちは商人に続き、1130年にはロンドン、ハンティントン、リンカーンの機織り職人とオックスフォードの革商人・機織り職人が、王権からギルドの慣習の正式な承認を取得した。小規模都市は領主から同様の保証を得て、サー・サーストン大主教がベヴァリーに与えた憲章は、ヘンリー1世がヨークに与えた授与を明示的に模範としていた。

ヘンリー1世時代のイングランドを巡るラン参事会員の旅

1112年の民衆暴動でランの大聖堂が焼失し、ヘンリー1世の元宰相だった同地の司教ワルドリックが殺害された後、再建のための寄付を集めるために一部の聖堂参事会員たちが北部ガリアを巡歴し、その後イングランドに渡った。彼らはコルディスタンという人物が船長を務めるイングランド船で、イングランドの羊毛を買い付けに向かうフランドル商人たちとともにウィサンから出航し、海賊の襲撃を間一髪で回避してドーバーに到着した。カンタベリーで大主教、その参事会、同地の裕福な聖アウグスティノ修道院から支援を得た後、彼らはイングランド南部へ西進し、その足取りはウィンチェスター、クリストチャーチ、エクセター、ソールズベリー、ウィルトン、ボドミン、バーンスタプル、トットネーズを経て、さらにデボン州とブリストルへと至ることが記録されている。

12世紀のウインチェスター

ウインチェスターはかつてウェスト・サクソン人の首都であったが、商業的にも政治的にもロンドンにその首位の座を譲り、今や戴冠式と王宮の所在地となっていた。それでもこの都市は王室と緊密なつながりを保っており、ニュー・フォレストへの近さから、征服者ウィリアムとその息子たちのお気に入りの住居地となっていた。ウィリアムは市内西端の高台に城を、大聖堂とニュー・ミンスターに近い南東部の街区に宮殿を建設し、復活祭の宮廷をそこで開いていた。「ホード」という英語名で知られる王座は、エドワード懺悔王の時代にウインチェスターに恒久的に設置され、ヘンリー2世の治世後期になってようやくウェストミンスターに移された。市内にある2つの大修道院のうち、聖スウィシンの「オールド・ミンスター」は最初のノルマン人司教の下で外観がノルマン様式となり、アルフレッドが創建した「ニュー・ミンスター」は、征服者ウィリアムがセントランの戦いで戦死した修道士たちを罰するため同修道院の西正面に宮殿を建てた後、1111年にヘンリー1世の許可を得て市の北境界の外の新たな敷地に移され、そこはやがて裕福なハイド修道院へと発展した。交易の中心地として、当時のヘンリーの時代にはウインチェスターはロンドンに次ぐ第2位の地位を占め、市内東部の聖ジャイルスの丘で開かれる年次大市は、かつてそこで開かれた中世の大市場の記憶を今に伝えている。

クライストチャーチ(ツインハム)とその聖霊降臨節の市

ウィンチェスターからニューフォレストの反対側に、ラルフ・フランバードが大がかりに再建した大修道院教会にちなんで、すでにクライストチャーチと呼ばれ始めていた小さな町ツインハムが存在した。聖霊降臨節の八日目、ラオンの司祭団が町の市に参加したが、自身の教会の改修のために群衆の捧げ物を独占したく、ラオンの聖母と分け合うつもりのなかったディーンはこのことを大いに迷惑に感じた。

エクセターの貿易と地域的重要性

エクセターでは、ラオンの司祭団は同地の副主教であり、後の主教となるロバートから温かく迎えられた。次の統治期には王国第四の都市とされていたエクセターは、固有の自然の富がなかった。デボン州南海岸の痩せた岩だらけの土壌は、最貧弱な質の燕麦しか生産しなかったからだ。しかしエクス川の河口は、ガリアやアイルランドからの商船にとって安全な停泊地を提供していた。ブリストルが急速にアイルランドとの貿易を奪いつつあったものの、エクセターは未だ人間が必要とするあらゆる商品が豊富に揃い、何を探しても無駄になることがないほどだった。

ロジャー司教時代のソールズベリー(旧サラム)

当時のソールズベリーは、現在のゴシック様式の大聖堂が建つ平野の都市ではなく、乾燥した夏に埋もれた遺構が時折地表に現れる旧サラムの手狭な丘上の拠点だった。狭い区域に押し込められていたロジャー司教時代のソールズベリーは、軍事拠点としては申し分なかったが、工業的・商業的に発展する見込みはなかった。もっともロジャーは町の市場通行税の授与を拒むことはなく、その税は1130年までウィルトンの土地収入の一部を構成していた。

ウィルトンの教会基盤

元々その郡の名前の由来となったウィルトンは、その郡の郡都であり、クリストチャーチと同様、主に修道院の存在で重要視されていた。その修道院では、エアドガル王の娘である聖エアドギスの記憶が、イングランド人もノルマン人も等しく崇敬されており、特に彼女と同じ王家の血を引き、かつて同じ名を名乗っていた王妃から特に崇められていた。ラオン大聖堂の参事会員たちは、この南の地にあるウィルトンで、奇跡的な癒しが起こる場として崇拝されるベーダの墓を見て、大きな感銘を受けた。

12世紀のブリストル:地理、貿易、社会

12世紀当時のブリストルは、半島の高い首筋部分に全体が位置していた。当時の半島は南東をエイボン川に、他の三方をほぼ馬蹄形に流れるフロム川に囲まれ、フロム川は現在のブリストル橋の下でエイボン川に合流する。市内の下流域はノルマン征服前には既に水路が変更されており、現在の河道は13世紀半ばまで、湿地で潮の満ち干ちで冠水する広大な荒地を横切る形で開削されるまでなかった。この地域のため、かつてのブリストルはセバーン海に浮かぶ島のように見えたという。狭い市域ながら、ブリストルは活気に満ち、建物が密集した商業都市であった。ウォーターフォードやダブリンからのオストマン人、西部諸島や遠くオークニー諸島からのノースマン人、さらにはノルウェー人たちが、セバーン河口の大潮「ヒグラ」—この異教の名前は、彼らの祖先の海神を思い起こさせる—を抜けて、千隻の船が停泊するとされる港へとやって来た。王国第3の都市に位置し、ウィンチェスターとロンドンに次ぐ規模であったブリストルだが、最も利益の高い貿易は市民たちの評判を高めるものではなかった。聖ウルフスタンと征服者による厳しい取り締まりにより、アイルランドの奴隷市場向けに人を誘拐する行為はかろうじて抑えられていたものの、ヘンリー1世の後期にはこの不正貿易が再び盛んになった。ラオンの教区司祭たちが港の船に乗り込んだ際には、岸にいる友人から「お前たちはおそらく外国に連れ去られ、奴隷として売られることになるだろう」と警告を受けたという。

第1章。

第1章では、ノルマン征服後の数十年間にわたるイングランドの主要都市の動向を概観し、セバーン渓谷と西部の町からチェスター、ヨーク、北部の国境地帯を経てリンカーン、ノリッジへと対象を移しながら、ノルマン支配が交易、防衛、教会地理をいかに再構築したかを明らかにする。

バスとセバーン渓谷地域

主教たちの旅程がバスで突然途切れた後、関心はセバーン渓谷へと移る。ツールのジョン主教は、バスの水に備わる治癒の効き目から、主教座をウェルズからバスへと移し、その後1111年にヘンリー1世から街全体を500ポンドで購入した。

グロスターの谷の繁栄

グロスターの谷は地上の楽園と称されている:一年中果実を実らせる木が生い茂る肥沃な地域で、道では通行人にりんごが実り、ぶどう園ではガリアのワインにほとんど遜色ない果汁が生産された。セヴァーン川は土地を肥沃化させる河川であると同時に商業の幹線として機能し、その周辺には修道院や町が発展し栄えた。

地域の中心地としてのウスターとヒアフォード

ウスターはその教区の中心であり続けたものの、グロスターは交易の利便性とデーン人王の時代に宮廷の集会場として長年担ってきた役割から、政治的にウスターを上回っていた。かつてはより重要な国境の拠点だったヒアフォードは、今では大きな規模の都市ではなく、崩れた城壁が過去の隆盛が失われたことを物語っていた。

チェスター:北西部の貿易・防衛拠点

チェスターは北西海岸圏において、セヴァーン河口が南部で果たすのと同様の役割を担っている。すなわち、貿易の中心であると同時に、ウェールズへの防壁としての機能も果たしているのだ。ただしディー川の対岸となると、産業の気配はほとんど見られない。というのも、西部ヨークシャーは耕作されていない荒野地帯のままで、東部は征服者による1068年の壊滅的な襲撃からまだ復興途中だったからである。

征服後のヨークとその周辺地域

周辺60マイルにわたる地域が荒廃する中、ヨークだけがその被害を免れ、途切れることのない市民生活、教会の最高位、商業的繁栄を保っていた。同地の商人たちは王特許状を享有し、ギルドの長老の下に組織され、独自の細則を定めるためのハンザ館を所有し、全州域で通行税を免除されていた。

カールライル:国境の復興と初期の成長

カールライルは875年にデーン人に破壊され、2世紀以上にわたり荒廃していたが、1092年にスコットランドの庇護下で同地を支配していたイングランドのザイン(アングロサクソン貴族)を追放したウィリアム・ルーファスによって復興され、再居住化された。ルーファスは残存するローマ時代の城壁を活用して新たな防衛施設で市を囲い、イングランド南部から植民団を招き土地を耕作させた。ヘンリー1世の治世が終わる前までに、この入植地はヨーク大司教区から分離して独立した教区を設置できるほどに繁栄した。

ニューカッスル・アポン・タイン:初期の貿易規定

ニューカッスル・アポン・タインの要塞(元々スコットランドからの防御のために建設された)周辺では、工業共同体が形成され始めた。この都市の慣習法は内陸貿易と海外貿易の両方を規定していた:バーガー(特権市民)は外国の商船が運ぶいかなる貨物も購入する優先権を持ち、外国商人との紛争は3度の潮が引くまでに解決されなければならず、塩とニシンは船上でのみ販売されなければならず、バーガーのみが町の外で羊毛・皮革その他の商品を購入したり、町内で染色用の布を製造したりすることが許された。

北部イングランドの孤立

イングランド北部は依然として手つかずの孤立した地域で、南部の民には理解不能な言語を話し、南とほとんど接点のない生活を送っていたため、ヘンリー王がハンバー川を渡る際には常に北部からの補助部隊で護衛を強化していた。ドン川下流域とトレント川周辺の地域は一面の湿地帯で、現在の活気あるウェスト・ライディングは、ウェイクフィールドからピーク地方まで広がる広大な荒野と森林地帯だった。

南北連絡路

ヨークシャーとイングランド中部を結ぶ唯一の安全な連絡路はフォス街道で、中央平原とトレント川東部の渓谷を越えてリンカーンに至り、その後北西に曲がってトレント川を渡り、ヨークへと続いていた。このルートによりリンカーンはヨークと南部を結ぶ街道の主要な拠点となり、交易は道路と、トークシーでフォス・ダイクによってトレント川と接続された小さな潮汐河川ウィザム川の両方を通じて同市に流入していた。フォス・ダイクはローマ時代に造られたものと考えられる運河で、ヘンリー1世によって浚渫され再び航行可能にされた。

ノルマン時代のリンカーンの台頭

ノルマン支配下のリンカーンは新たな重要性を高め、2つの区域が変貌を遂げた。南西区域は166棟の家屋が撤去された後にウィリアム征服王が築城した城によって、南東区域はレミギウス司教の大聖堂によって再開発された。これらの中心地の周りでは、ウィサム川の向こう側に新しい制約のない町が発展し、セント・メアリー・ル・ウィグフォード教会とセント・ピーター・アット・ゴウツ教会が服務を提供した。わずか約50年でリンカーンはイングランドで最も人口が多く繁栄した都市の1つと数えられるようになり、「都市の住民と州の商人」はすでに商人ギルドで統合されていた。

主要都市への司教座移転

司教座を各教区の主要都市に移転する習慣は、ノルマン征服以降に生まれたものだった。レミギウス司教がドーチェスターからリンカーンに移ったのは、マーシアの古い司教区が「森林の中の小さな町」だったリッチフィールドから、まずチェスター、そしてコヴェントリーの大修道院へ移されることになったのと同じ論理に従ったものだった。またこの論理は、イースト・アングリアの司教座をテットフォードからノリッジへ移すことにもつながった。

ノリッジ:東アングリアの都市・教会の成長

11世紀前半にスカンジナビアの貿易商の下で大きな繁栄を遂げたノリッジは、ノルマン人が到来した時点でロンドンとヨークに次ぐ中産市民人口を誇り、24の教会を有していたが、ラルフ伯爵の反乱の影響を多大に被った。それでもサン・ピーター・マンクロフト教区とサン・ジャイルズ教区に新たなノルマン式「自治都市」が形成され、教会と礼拝堂の数は44に増え、ハーバート・ロジンガ司教が大聖堂の礎を築いた。1121年、ヘンリー1世はグロスターに代わってノリッジで中冬公会を開催し、この頃ノリッジ市民は最初の王特許状を受け取り、その条項は現在ではヘンリー2世の確認状からしか知られていない。

第1章

第1章では、ノルマン時代におけるイングランドの都市生活の活発な成長を考察する。ドゥイリ家の下でオックスフォードが復興し繁栄していった様子、そして首都かつ商業的中心地としてロンドンが台頭していく様子に焦点を当て、この章では軍事的・宗教的・知的・市民的・社会的な制度がこれら二つの都市にどのように根付いていったかを追い、ヘンリー1世の統治下までにそれらが政治的・文化的中心地として機能する準備が整うまでを描く。

テムズ川流域におけるオックスフォードの成長

統計的には依然として小さな町だったオックスフォードは、忏悔者の時代には住居が約1000件しか存在しなかったが、ドームズデイ調査前には深刻な荒廃を経験し、住居の半数以上が廃屋となっていた。それにもかかわらずテムズ川流域はイングランドの都市生活が最も活発に成長していた地域であり、ロバート・オイリーとその甥の賢明な統治のもと、オックスフォードは急速にその歴史をイングランドの縮図とする多様な生活を体現するようになった。

ドームズデイ後のオックスフォードの復興

ドームズデイ調査前にオックスフォードが被った被害——おそらく1065年にエドウィンとモルケアの軍が南方へ進軍した際に加えられたもの——は、ロバート・オイリーとその甥の統治下で迅速に修復された。ヘンリー1世の治世末期までに、オックスフォードの驚くほど多様な生活のあらゆる側面は、まだごく初期の段階ではあったが、すでに存在していた。

オックスフォードのノルマン期要塞とインフラ

ドイル家は、長兄エアドワードがはるか以前からその価値を認めていたオックスフォードの拠点の軍事的防御力を強化した。取り囲む河川による天然の防御を活かし、街は土塁と堀で固く囲まれ、西端の盛り土——おそらくエアドワード自身が築いたもの——は強大な要塞の中心核とされた。要塞の整備以外にも、ドイル家は橋を建設し(ハイ・ブリッジは初代ロバートが築いた橋の1つである)、崩れた教会を修復し、城内の聖ジョージ教会、そしておそらく東郊外の聖ペテロ教会を含む新たな教会を設立した。

ドイル家時代のオックスフォードの宗教的拠点

ドイル家の下、オックスフォードには16の教会とチャペルが存在し、その中にはオイルリーのロバートとその甥が設立または修復したものが含まれる:城内の聖ジョージ教会、東郊外の聖ペテロ教会、聖ミカエル教会、聖母マリア教会、城外のマグダラのマリア教会である。知的・宗教的中心は、オースティン会修道士の管理下に移り、博学な院長ギムンドの下で繁栄した古代の聖フリースウィズ修道院のままであった。若きロバートは、同じくオースティン会修道士のための強力な対抗修道院をオセネーに設立した。

中世オックスフォードにおける初期の知的生活

アウグスティヌス会(知的・社会文化の復興と密接に関わる新たな修道会)は、自らの修道院を当時最高の学校とし、聖職者と世俗人の双方の進路を目指す学者を育成した。オセニーとセント・フライズワイズにおけるアウグスティヌス会の存在は、ヘンリー王の治世の終わり頃にロバート・ピューリーンが1133年に行った神学講義を通じて、最初のイングランド大学の種を受け入れるためのオックスフォードの知的土壌を整えた。

オックスフォードの市民生活とギルド

オックスフォードの市民生活は長らくセント・マーティン教会を中心に形成されており、その教会墓地ではポルトマンモット(市民の総会)が開催されていた。市民たちは商人ギルドとギルドホールを持ち、イシス川の向こう側に広がる緑豊かな「ポート・メドウ」には共有の放牧地があり、皮革商・機織り職人のギルドにおいて地方産業の萌芽が生まれていた。

ヘンリー1世以前のオックスフォードの政治的復興

ヘンリー1世の崩御の直前、オックスフォードが旧イングランド王およびデーン人王の時代に保持していたが、その後失った政治的地位を再び獲得する兆候が現れ始めた。貞女の守護聖人フリズウィズが、王室の求婚者に天罰を下し、門の前で彼を盲目にさせたという伝説が伝えられていた。以来、いかなる王もオックスフォードの境界に足を踏み入れることを恐れた。お気に入りの住居がウッドストックにあったヘンリー1世は1133年に北の城壁のすぐ外に「新しいホール」を建設し、そこで一度復活祭を祝った—これは彼がイングランドで過ごした最後の復活祭であった。その後、王位を請求する各ライバルは、オックスフォードがロンドンに劣らない政治・軍事の中心地として利用できることを知った。

12世紀ロンドンの街の構造と防衛施設

12世紀のロンドンの外観は不規則な半楕円形で、北側の陸地側は門と高い塔を備えた巨大な城壁で囲まれていた。一方、テムズ川沿いの南側の城壁は徐々に浸食されて消えていた。東端は征服者ウィリアムが建設したロンドン塔が守り、西端はキャッスル・ベイナードとモンフィシェットが守備していた。聖パウロ教会近くの要塞は、征服者の崩御前に起こった大火で部分的に破壊された。その堀はヘンリー1世により、大聖堂の周辺区域を囲む城壁を建設するためにリチャード司教に譲渡された。当時、新しいノルマン様式の教会が完成間近だった。

中世ロンドンの市政統治

セント・ポール大聖堂(S. Paul's)はロンドンの市政の中心地だった。平時はその東端に民会(フォークムート)が集合し、戦時には武装した市民たちがベイナード城の城主の旗の下、その西の門に集まった。ロンドンの統治体制は単一の都市憲章というより、イングランドの国家組織の縮図だった。教区、タウンシップ、特権地域、教会、ギルドが司教と港湾長官(ポートリーヴ)の下に緩やかに統合されていたのである。ヘンリー1世の治世までにロンドン市民は国王特許状を獲得し、国王が任命した港湾長官を自分たちが選出する治安官と交代させ、王国全土での関税免除、さらに特別司法官を通じた国王関連訴訟の管轄権を手に入れた。しかしこの特許状は多様なソーケン(中世イングランド東南部の地方行政区分)、慣習法、区民会、ハスティング裁判所(中世ロンドンの司法・行政の中心機関)をそのまま残した。そのためロンドンは「家々で覆われた州」となり、まとまりのある都市体ではなかった。

ロンドンの地区と郊外空間

ロンドンの成長する生活の中心は、主に聖パウロ大聖堂の北東に位置し、密集した街路と路地の間に修道院教会と教区教会が立ち並んでいた。ウォールブルック川はその中心を流れ、かつては艀がチープ地区東端の着岸場所まで曳航されていた。その先にはより賑やかな東チープが広がり、北部のウォールブルック川上流沿いには栄えたユダヤ人街が存在した。人口は城壁の外へと広がり、快適な郊外の家屋、修道院とルーファスの宮殿を囲む人口の多いウェストミンスター郊外、北西のスミスフィールドの馬市用原野、そしてチルターン丘陵へと続く周辺の耕地、牧草地、水車小屋、森林へと拡がっていった。

中世ロンドン市民の社会生活

裕福なロンドン市民は周辺の森林で王に準ずる狩猟権を享有し、一方若い市民層は夏には郊外の庭園や清水の湧き出る場所を散策し、冬にはムーアフィールズでスケートをしたり、そりで滑ったりしていた。聖パウロ大聖堂も聖ペトロ大聖堂も学校を運営しており、バーモンジーの修道院も同様だった。市民は礼儀正しさ、服装、食事、会話のいずれにおいても他の誰よりも尊敬され、ほとんどすべてのイングランドの司教、修道院長、大貴族がロンドンに立派な屋敷を保有していた。古代イングランドの制度では、3度の長距離航海を成し遂げた商人はテインの階級に列することができ、商業階級と貴族階級の自然な橋渡しとなった。

ロンドンにおけるノルマン人の定住と民族融合

ロンドンの町人たちの民族融合は、ほぼノルマン征服の初年から始まった。略奪を好む騎士道精神を持たないノルマンの商人、交易商、職人たちは、新たな支配地で幸運をつかむため平和的に移り住んできた。赤毛王の苛酷な専制は被害者たちを共通の苦難で結びつけたが、ヘンリー1世による法と秩序の復活により、産業と商業の活力が花開いた。ルーアン、カーン、その他のノルマン都市からの入植者がロンドンにやって来たが、そこではそれまでの長年にわたる商業交流が言語や偏見の壁を溶かしていた。イングランド人とノルマン人は、時には別の地域に住みつつも、平和に友好的に交流し、ノルマンの洗練が急速に広まり、異民族間の結婚が頻繁になるなか、ロンドンはあらゆる都市の中で民族融合が最も進みやすい場所となった。

第一章。

これは第8章(章番号5)の全12断片中7番目の断片で、タイトルは*第一章*です。本章では12世紀ノルマン朝イングランドにおける社会・経済・家庭生活を扱い、ロンドンにおけるノルマン系市民の影響、トーマス・ベケットの両親の家庭、フランドル人の入植と交易、ユダヤ人共同体の地位、住宅建築、服装の規範、封建的荘園構造、農奴の土地保有と荘園義務について解説します。

12世紀初頭のロンドンにおけるノルマン市民の影響

12世紀初頭のロンドンではノルマン市民が支配的な影響力を有しており、公正な手段でその優位を獲得し、公平に行使していた。彼らは都市の総体的繁栄とより広範な国家的繁栄の両方に貢献し、富だけでなく、企業家精神、活力、洗練、文化、そして社会と政治の進歩をもたらした。彼らの快適で整然とした住居は、貴族の城塞の不快で孤立した特性をしのぐもてなしと洗練された社交を提供し、高貴な世俗エリートの大多数を占める粗野で向こう見ずな剣士の間ではめったに見られない社会環境を実現していた。

ギルバート・ベケットとロヒーズのチープサイドの世帯

ギルバート・ベケットはルーアン生まれのロンドン港長官で、聡明さ、勤勉さ、高潔な人格で知られ、妻のロヒーズはカーン生まれで、家事への献身とキリスト教の慈善活動で名高い。この夫婦の世帯は12世紀初頭のロンドンにおける典型的な中産市民家庭の代表例として用いられている。自宅は賑やかなチープサイド貿易街にあり、マーサー・ホール、聖マリー・コール教会、聖マリー・アット・バウ教会の近くにあった。世帯はゆとりある豊かさはあったが、派手なまでの富裕ではなく、当時の尊敬される裕福な中産階級の市民家庭と見分けがつかないほどだった。息子で後のトーマス・ベケットはここで生まれ、サリー州のマートン修道院の学校に送られ、休暇は家族の友人の若いノルマン騎士リシェ・ド・レーグルと馬に乗ったり鷹狩りをして過ごした。

フランドル人入植と英フランドル貿易関係

フランドルはフランスのノルマンディーと神聖ローマ帝国の国境地域であり、イングランド国王の長年にわたる政治的同盟国でもあった。イングランドとは文化的・経済的に深いつながりを持ち、血縁、言語、気性の類似性が両国民の間の自然な共感を育んでいた。ブルージュ出身のフランドル商人は、ルーアンやカーン出身の者よりもはるかに频繁にロンドンを訪れ、フランドルとの貿易はイングランド東部の商業において最も重要な位置を占めていた。イングランド産の羊毛は、繁栄するフランドルの織物産業の主要な原材料であり、ドーバーはブルージュとヘントで開催される大規模な年次市に向けて出荷される羊毛の主要輸出市場として機能していた。ヘンリー1世の統治下、フランドル人入植者はイングランドの町々で数を増やし、繁栄するようになったが、ノルマン人とイングランド人の双方から嫉妬を買った。1111年、ヘンリー1世は反抗的なウェールズ人を平定するためにペンブルックシャー南部にフランドル人植民地を設置した。この入植は成功を収め、その地域はゲルマン系の「ウェールズを越えた小さなイングランド」と呼ばれるようになった。これらの入植地はイングランドと低地諸国の最初の社会的・産業的つながりであり、後のイングランド産業に大きな変革をもたらすより大規模な入植の先駆けとなった。

ノルマン朝イングランドの町におけるユダヤ人コミュニティの地位

ユダヤ人が最初にイングランドに到来したのは、ウィリアム征服王がルーアンからユダヤ人植民地をロンドンに移住させたときのことである。彼らはルーファス王(ウィリアム2世)に寵愛され、12世紀までにイングランドの主要なほぼすべての町に定住したが、国家の正式な構成員とはみなされていなかった。彼らは国王の個人的な所有物とされ、関税・租税・世俗的司法罰金が免除され、富は国王に保護されていたものの、国王の気まぐれでいつでも差し押さえられる可能性があった。教会が高利貸しを禁じていたため、ほとんどの職業から締め出された彼らは主に金貸しとして働き、商業の拡大に間接的に貢献した一方で、町の政治的・社会的発展には一切関与しなかった。彼らは独自の自治権を持つユダヤ人地区に居住し、商人ギルド、港の長官、シャリフ、司教の管轄権が及ばず、社会的・法的障壁によって周囲のキリスト教徒コミュニティから遮断されていた。

12世紀イングランドの住宅建築と家庭生活

12世紀の住宅建築は社会階級を問わずほぼ一律で、ほとんどの家は広間(ホール)、二階の居室(寝室と私的客間を兼ねた部屋)、台所、付随する作業部屋から成り、ほぼすべてが木造だった。広間は世帯全員が生活し、食事をし、仕事をし、眠る共同の空間で、床にはラッシュ(イグサ)が敷き詰められ、中央に石の炉が設けられ、火の周りにテーブルとベンチが配置されていた。夜になると客人や使用人はカーテンによる仕切りだけしかなく、燃えさしの火の明かりの中で広間で眠った。二階の居室には簡素な家具が置かれ、カーテンのないベッド、ワードローブとして使われる鉄の枠で留められたオーク材の箪笥、場合によっては乳児用のゆりかごが置かれていた。木造だったため街は頻発する大規模な火事に見舞われやすく(ギルバート・ベケットの家は何度も火事に見舞われ、ロンドンの大部分を焼失させる原因となった)、石造りの家は大貴族や例外的に裕福なユダヤ人にしか手が届かず、ほとんどの建物は茅葺きの屋根だった。この時代の建築の労力はすべて軍事用と教会建築に注がれ、城でさえも快適性や美的な優雅さを重視せず、防御に特化した簡素な石造りの構造物だった。

ノルマン朝イングランドの衣服とファッション規範

当時の衣服は、建築の焦点が軍事・宗教建築に向けられていた背景もあり、個人の贅沢を表す重要な手段だった。ウィリアム・ルーファスの治世期には、貴族の服装は非常に華美になり、長く香りをつけた巻き毛、女性的な装飾品、尖った靴、身体を動かすのが不可能なほどのゆったりした衣服が特徴で、教会の上級聖職者から厳しい批判を浴びていた。ルーファスの死後、ヘンリー1世とその盟友であるミュラン伯ロベールは、より実用的なノルマン騎士の服装に立ち返る改革運動を主導した:騎乗や歩行用に、体にぴったり合ったチュニクスと、ほぼ足元まで届く長い外套を組み合わせた服装である。イングランドの都市住民は海峡対岸のファッションを採り入れたのに対し、農村部の民衆は古い伝統的な服装を維持しており、その中には数世紀にわたってイングランドの地方民の間で普及していたリネンのスモックフロックも含まれていた。

ノルマン朝イングランドにおける封建的荘園構造と農村生活

12世紀までに、古代アングロ・サクソンの集落は完全に農村生活の中心である封建的荘園へと変貌を遂げていた。荘園館(サクソン領主の広間から発展したもの)は荘園の中央に位置し、その周囲には自由農民と農奴が耕作する領主の私有地が広がり、農奴たちの小屋は私有地の境界に集まっていた。農奴の耕作地に加え、共有の放牧地、森林、干草の草地が荘園の残りを構成していた。耕作地は複数の耕地に分散したエーカーまたは半エーカー単位の細長い区画に分けられた大きな開放耕地に分割されており、農民たちは耕地を耕作するための共有の鋤きチームに牛を提供していた。ピーターバラ大修道院をはじめとする荘園では、保有地は通常ヴァージェート(30エーカー、標準的な4頭立ての鋤きチームに必要な牛2頭を要する)あるいは半ヴァージェート(15エーカー、牛1頭を要する)であった。農民たちはまた共有放牧地、干草、森林(豚の飼料、泥炭、燃料用)への利用権を有しており、土地を持たない一部のコティエールは、鍛冶屋、大工、車大工など村に不可欠な技能者としての労働と引き換えに、庭付きあるいは庭なしの小さな住居を所有していた。水車は大規模な荘園に必ず存在する主要な施設で、固定の金銭地代を支払い、時には自らの流水から魚の貢ぎ物も納めていた。

農奴保有権と荘園義務

ヴィレン(農奴)保有権のもとで土地保有者は領主への義務を負い、その義務は領主直営地(デメーヌ)での労働、金銭または現物による慣習的な納付、特定の季節作業のための臨時の専門的「恩恵労働(ブーン、ベネ・ワーク)」のいずれかで履行された。荘園の監督官(リーヴ)または管理人(バイリフ)は、労働管理、農具・家畜の維持、貢納の徴収、未利用地の貸借、収入の会計処理を含む荘園の全運営を監督した。農奴は「週労働」の義務を負っており、これは毎週領主直営地で行う所定日数の労働で、農奴保有地1ヴィルゲートにつき通年で2~3日程度、収穫期には追加の労働日が要求された。慣習的な貢納は各荘園の慣習により異なり、金銭または現物での納付のほか、材木の伐採、荷車運搬、泥炭の切り出し、茅葺き用の茅の調達、麦芽の製造、干草の刈り取りと運搬、柵の設置、犂の提供、領主直営地での犂起し、播種、代掻き、収穫などの専門的役務が含まれた。一部の借地人は専門的な村役職と引き換えに土地を保有しており、例えば牛飼い、牛牽き、羊飼い、豚飼いは「奉仕を対価に」土地を占有し、見返りに領主の家畜の管理を行い、その妻たちは時々脱穀や領主直営地の穀物の収穫などの追加の労働地代を負うことがあった。

第1章

この章では、ピーターバラ修道院の*リーベル・ニゲル*(黒書、1125年頃編纂)と当時の行政・教会記録を活用し、12世紀イングランドの農村荘園生活、農奴の法的・社会的地位、農奴解放への可能的な道筋、ヘンリー1世治下のイングランド教会の状況、そしてアウグスチノ会修道会の台頭を検証する。

ピーターバラ黒書における荘園奉仕

このセクションでは、ピーターバラの*Liber Niger(黒書)*に記録された荘園義務について詳述しています。これには、労役、金銭・現物支払い、およびソープ、コリンガム、イーストン、フィッシャートン、オンデールの各荘園における異なる借地人世帯(完全農奴、半農奴、ボーダリ、ソークメン、コタージャー)に対する奉仕要件が含まれています。借地人に課される奉仕には、週次・季節的な農業労働、耕作、除草、木材と泥炭の採取、粉挽き場賃料と市場使用料の支払い、修道院で使用する穀物・家畜・卵・麻などの生産物納入義務が含まれます。

農奴の地位と封建的義務

この章では、封建制度下で領主と農奴(ヴィラン)を拘束する相互の権利と義務を解説します。農奴は領主に労働と慣習的な貢納を提供する義務を負っていたものの、領主の農奴に対する恣意的な権力を制限し、義務を果たしている限り土地の保有権と家財を保障し、未納の貢納物であっても立ち退きを禁じる、厳格で古くから定められた慣習法によって保護されていた。農奴は領主に対して法的救済を求めることが可能であり、その一例としてヘンリー1世治世31年目のパイプロールの記録には、チェアフワードのアルフレッドが自らの農奴を鞭打った罪で40シリングの罰金を支払ったことが記載されている。農奴を土地に縛り付ける相互依存的な封建的紐帯は、騎士から男爵に至る高位の封建身分が国王に対して負う義務を反映しており、その例としてエヴルー伯ウィリアムが、自身の忠誠の誓いと奉公が無断でヘンリー1世に移されたことを不満として訴えた事例が挙げられる。

農奴の自由への道

このセクションではまず、無条件の個人の自由が地域の社会的つながりや慣れ親しんだ生計の手段を失うことになるのであればしばしば疑わしい利益に過ぎなかったことを指摘した上で、農奴が解放される主要な3つの経路を概説している。第1に主人による解放で、主人の死の床で与えられることが多く、また教会の影響下で罪の償いとして認められる場合がある。第2に勅許都市への逃亡で、1年と1日間再逮捕を逃れた農奴は、その都市の慣習法に基づいて自由市民の地位を獲得する。第3に聖職に就くことで、叙階や修道院への入修は主人の同意がなくても自動的に自由を付与し、ヘンリー2世の治世までには王の禁止令にもかかわらず広く受け入れられるようになった。

ヘンリー1世治下のイングランド教会の状況

この章では、ヘンリー1世治下のイングランド教会の状況を検証する。ウィリアム・ルーファスの時代に見られた公然たる腐敗や聖職の露骨な売買は回避されたものの、同教会は世俗統治の手段として国家に実質的に従属させられていた。主要な司教位は、王の大臣を務める有能な行政官に授けられた。ヘンリーの前任者の腐敗した任命者に比べ、これらの聖職者たちははるかに誠実で有能だったが、現世的義務に専念したあまり、司教および司祭としての霊的責務を怠る結果となった。教会の真の霊的活力は、上級聖職者の中ではなく、謙虚な一般信徒の間に受け継がれていた。

アウグスチノ会修道会の台頭

本節では、修道院生活と世俗聖職者生活の双方に広く横行していた弊害に対応する12世紀の宗教改革運動であるアウグスチノ会修道会(聖アウグスチノ会正規修道会)の起源と初期の発展を追う。イングランドおよび大陸の世俗大聖堂聖職者に8世紀のクロードガングの規則を押し付けようとする失敗した試みを受けて、真摯な改革者たちは伝統的な修道生活の共同生活と誓約を、より簡潔で柔軟な組織構造と融合させた新たな修道会を設立した。この構造により、同修道会は活動的な牧会奉仕と瞑想的な宗教生活の両方を支えることが可能となり、多様な環境に適応するとともに、緩んだ世俗聖職者組織と厳格な修道会の間に横たわる隔たりを埋めることができた。

第1章。

本章では、ヘンリー1世の治世下におけるイングランドへのアウグスティノ会(オースティン)修道士の到来、定着、影響力の高まりについて、創設された小修道院、関連する主要な人物、高位司教職への昇進を含めて記述する。次に、シトー会の起源、イングランドへの急速な拡大、イングランドにおける主要な大修道院の設立、中核となる改革の原則、そして広範なイングランド教会への大きな影響について追溯する。

オースティン会修道士のイングランド到着

オースティン会の修道士たちはヘンリー1世の即位直後にイングランドへ到着し、その最初の定住地は当時並行して進んでいた宗教的復興と国家的復興の緊密な関連を示している。

聖三位一体 オールドゲート修道院

イングランド初のオースティン会修道院は1108年、マティルダ女王によってロンドン東側の城壁内のオールドゲート地域に創建された。同修道院の伝承ではマティルダ女王は「良き女王モード」と呼ばれている。この修道院の財産の一部は、新たな共同体のために古イングランドの騎士ギルドが提供したものである。修道院は聖三位一体に奉献され、ケント州出身でガリアで聖アンセルムに学んだ初代院長ノーマンは、マティルダにオースティン会(アウグスティヌス会)を紹介し、後に彼女の告解司祭を務めた。創設間もない修道士団は当初食料の確保に苦労したが、地元民の同情を引くために食堂に空の皿を置いたところ、ロンドンの市民の妻たちが日曜日にそれぞれパンを1つずつ持ってくることを約束し、不足が解消された。