ウェヌスのような単一の神がこの任務に不十分であれば、神々の増加は神聖な人間の結合を、宗教に値する荘厳さよりも道化に値する茶番へと変えてしまう。
結婚の床を超えて、アウグスティヌスは批判を農業と出産の神々にまで広げる。新たに母となった女性をシルウァヌスという神から守るために行われる具体的な儀式を指摘するのだ。三柱の準神がシルウァヌスを退ける守護者として任命されていると説明する。シルウァヌスは粗野で未開な森林の神として描かれ、出産中の女性を侵犯する傾向があるとされる。これらの守護者の存在を示すために、夜間に三人の男が家の周囲を回り、農業用具で象徴的な行為を行わなければならない。まず、手斧で敷居を打って木を伐採することを象徴する。次に、杵で打って穀物をひくことを象徴する。そして三番目に、箒で掃いて穀物を積み上げることを象徴する。この三つの行為から、三柱の特定の神が名付けられる。インテルキドナは手斧による伐採から名付けられ、ピルールムスは杵から名付けられ、ディウェッラは箒から名付けられる。アウグスティヌスは、善意の神々の守護では悪戯好きな神の悪意に対して十分でないという考えをあざけるように批判する。善意の神々が三対一の優位を必要とし、農業の象徴的な道具を持って互いに戦わなければならないのはなぜかと問うている。彼はこれが神々もまた人間のように弱々しく争い深く、互いに斧や杵や箒を使用して守らなければならない神学を明らかにしていると論じる。シルウァヌス、インテルキドナ、ピルールムス、ディウェッラのような取るに足らぬ神々で満ちたこの入念な儀式は、神々界を些末で争いの絶えないものとして描き上げ、永遠の生命を授ける力は完全に欠如していることを示している。アウグスティヌスはさらに、瓦ロの「信仰深い人間」と「迷信的な人間」の区別における矛盾を指摘する。神々が本当に慈悲深く無害であるならば、なぜ神々の一員である者の悪意に対してそのような入念な防衛を必要とするのか。これらの儀式の必要性は、これらのいわゆる神々の慈悲深さではなく、むしろ取るに足らぬこと、争い好きで滑稽な性質を裏切っている。
論点を強化するため、アウグスティヌスは哲学者セネカを引用する。セネカは瓦ロよりもさらに激しく国家宗教の迷信を批判した。セネカは神々の像と信者の狂気じみた行動―自傷や血を流すこと―をあざ笑い、そのような崇拝を要求する神々は怪物であり神ではないと主張した。神殿の役人が神々の理髪師や弁護士であるかのように振る舞う不合理さを描き、カピトリヌスを道化芝居の舞台のように扱うことを非難した。しかしアウグスティヌスは、セネカが批判にもかかわらず、政治的慣例から儀式に参加し続けたことを指摘する。本気で信じ込むことよりも役を演じることの方が好ましいと気づいたからである。セネカは賢者に、神々にとって心地よいかのように法を守りながら、内的にはそれらを単なる慣習として軽蔑すべきだと忠告した。アウグスティヌスはまた、セネカがユダヤ人に対して持つ惜しみない敬意にも言及する。ローマ人と異なり、ユダヤ人は自分たちの儀式の理由を理解していたことを認め、これが彼の一般的な風習への軽蔑にもかかわらず、彼らの優れた知恵の証だとしたのだ。セネカは、征服されたユダヤ人が征服者に法律を与えたことを観察したが、この言葉は不知のうちに真の神の力についての証言となった。セネカはこうした迷信に逆らう著作を書く自由を持っていたが、それから自由である勇气 жизнь,敢えて行動する勇気が欠如しており、非難しながら崇拝する偽善者として留まった。
結論として、アウグスティヌスは、寓話神学と公民神学の神々が空虚で恥ずべきものであり、人類によって創られたものであることが証明されたのだから、それらは永遠の命の源ではあり得ないと主張する。彼は永遠の命を果てのない幸福――真の至福――として定義し、それは至福の授与者である真の神からのみ来るものであると述べる。悪霊である異教の神々は真の幸福を与えることができず、したがって永遠の命を与えることもできない。アウグスティヌスは、真の幸福はフェリキタスという女神ではなく神の賜物であり、自然の創作者である神のみが超克する命を与えることができると論じる。公民神学の空虚さを十分に実証した後、アウグスティヌスは因襲的な習慣に未だ捉えられている者のために次の書で論駁を続けることを約束するが、理性ある者はそのような神々に魂の救いを求めてはならないと主張する。彼は公民神学を悪霊に触発された寓話の集大成として退け、理性ある魂に値しないものとし、不死への希望は全ての存在と全ての至福の源泉である神のみに置くべきであると肯定する。論証は完了した。神々が地上的な財を与えることができず、その性格と儀式において道徳的に忌まわしいものであるならば、彼らは人間の真の目的である永遠の幸福を与えることに全く不適任である。
アウグスティヌスの公民神学のパラダイムに対する決定的な拒絶は、重要な問題を残している。普通の神々が不適切であることが証明されたならば、人類の永遠の命に対する 궁극的需要に応ずることのできる、より精选で価値ある神々の階級が存在するのだろうか。先行的論証は、ローマの市民的・劇的伝統で賞賛された神々の大多数が、混乱と道徳的腐敗以外に何も提供しないことを実証した。しかしヴァッロ自身は、この圧倒的な神々の群れと、ローマの宗教的階層においてより荘厳な位置を占める、より小規模で精英的な「選定神々」の集団とを区別していた。アウグスティヌスが今検討しようとするのは、まさにこのより有望なカテゴリーであり、これらの丁寧に厳選された神々が 凡庸な大衆に値しない崇拝と信頼に最終的に値するものかどうかを探究しているのである。
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