神の国、第一巻 cover
Angelology and the Angelic Fall

神の国、第一巻

ローマが燃える中、アウグスティヌスは異教徒の非難に応えて、神の都と地上の都という二つの都市に関する広範な神学を提唱し、歴史そのものの意味を再解釈して、真の神の都を帝国ではなく、永遠の至福を目指す魂の交わりの中に見出した。

Augustine, of Hippo, Saint · 2014 · 192 min

アウグスティヌスは作品を促した友人にして献呈先であるマルケッルスに宛てた序論をもって、この壮大な弁明を開く。彼は自らの創始者보다自国の神々を好む者たちに対して神の国を擁護するつもりであることを宣言する。この都は二つの状態に存在すると彼は説明する。一つは旅行者としても漂泊し、不敬虔な者たちの間で信仰に生きて滞在し、もう一つは天上の座の安定において永遠の住処を待つ。この任務は厳しく、それは謙遜の美徳——人間の傲慢ではなく神の恩寵によって高められる謙遜——傲慢な者たちを説得することを要する。この都の王は、神は傲慢な者に抗い、謙遜な者に恩寵を与えると宣言された。地上的支配者もまたこれを見倣い、憐れみを示して謙遜な者を高める一方で傲慢な者を粉碎する。しかし彼らはそうするのは愛のためではなく野心のためである。アウグスティヌスはしたがって地上的な都についても語らねばならない。かつて諸国を支配したその都であるが、それ自体支配欲によって動かされているのである。

この弁論の直接的な契みはゴート族によるローマの略奪であり、パガニティの批評家たちはこれをキリスト教の偶像崇拝禁止のせいだと非難している。アウグスティヌスは蛮族の行動と、生存者たちの恩知らずさを指摘することから反論を始める。虐殺を逃れた多くのパガニティたちがキリスト教会に逃げ込んだにもかかわらず、今や自分たちを救ったその名を冒瀆している。殉教者の聖遺物納めや使徒の大聖堂は、キリスト教徒・否かに関係なく、逃げ場を求めるすべての人々の聖域となった。そこでは敵の怒りは抑えられ、そこでは血に飢えた兵士たちは慈悲を示し、そうでなければ虐殺していたはずの人々を生き延びさせ、捕虜さえも自由へと導いた。これらの生存者たちはゴート族がキリストに対して持っていた敬意のおかげで命を之恩っているのに、神的摂理ではなく幸運のせいだと主張している。彼らはむしろ、受けた惨事は罪に対する神の懲らしめであり、受けた慈悲はキリスト教の影響の成果であったことを認めるべきである。

この寛容さがいかに前例のないものであったかを示すために、アウグスティヌスはトロイアの陥落から始まる戦争の歴史を概観する。彼は、教養あるローマ人なら誰もが知るウェルギリウスの記述を引用する。那里ではプリュアモスが祭壇で殺害され、ギリシャ人が神殿を冒涜し、パラスの像を聖所から引きずり出している。トロイアの神々は自分たちの守護者を守ることができなかった。むしろ守護者たちが神々を守ったのであり、守護者たちが倒れると、神々は戦利品として連れ去られた。自らの守護者を守れない神々に何の用があるのか。敗北した者への寛容さを誇りとしていたローマ人も、寺院に逃げ込んだ者たちにはその寛容さを及ぼさなかった。カエサル自身が記したように、戦争の普遍的な慣習は以下の通りである。乙女は汚され、子供は親から引き離され、神殿は略奪され、至る処で殺戮と焼き讨ちが行われた。シラクサを前に涙を流したマルケルスも、貞潔を守る布告を発しながらも、聖なる場への例外もなく、戦争の慣習に従ってその都市を略奪させた。「怒れる神々」をタレンティン人に残したと称されたファビウスも、その神々を味わうために敗北した者たちを容赦しなかった。ローマ的美徳の細部まで記録した歴史家たちが、このような前例のない慈悲の行為があれば必ず記したことであろう。ゆえに、キリスト教会に逃げ込んだ者たちの助命は、太陽の下で新たなこと——キリストの名に起因せねばならない蛮族の怒りに対する抑制——であった。

教会で示された慈悲が神から來的ものであることを確立した後、アウグスティヌスは神がなぜ義人と悪人の両者に災いを許すのかというより深い問題に取り組む。彼は、この現在の人生の幸不幸は両者に共通のものであり、義人と不義なる者に同样に太陽が昇り、雨が降ると主張する。この取り決いは摂理的役割を持っている。善人は地上的幸福を究極の報酬として渇望することも、逆境に見舞われた時に絶望に追いやられることもない。同様の苦悩が義人を試練し清める一方で、悪人を滅ぼし破滅させる。火が金を輝かせるが籾を煙らせるように、脱穀器が穀物とわら分別するように、苦悩の暴力は被験者の真の性質を明らかにする。悪人は苦悩の中で冒瀆するが、義人は祈り感謝する。違いは、何を受けるかでなく、苦しむ者の魂にある。

アウグスティヌスは次に、なぜ善人が邪悪な者とともに罰せられることが多いのかを考察する。彼はいくつかの理由を提示する。第一に、義人と呼ばれる人々にも罪はあるのだから、邪悪な者の大罪と比較してわずかなものとはいえ、これらの現世での更正は彼らを潔める働きをする。第二に、善人はしばしば罪人を戒め警告する義務を果たせなくていて、労苦を避けていたり、気に障ることを恐れて躊躇したり因而、その道徳性を是正することができたかもしれない共同体の現世の罰を、正当に分け合うことになる。第三に、苦難は魂をこの現在の生活への過度な愛から引き離す。第四に、苦難は信仰の誠実さを証明する。ヨブの場合のように、彼の試練は彼が神を神自有のために愛したこと、神が授けた賜物のためではなく神自有のために愛したことを示していた。したがって、善人は悪人と一緒に苦しむとき、神に不平を言うべきではなく、自分の良心を探り、更正を潔めの手段として受け入れるべきである。

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