The City of God, Volume I cover
The Two Cities

The City of God, Volume I

ローマが燃える中、アウグスティヌスは異教徒の非難に応えて、神の都と地上の都という二つの都市に関する広範な神学を提唱し、歴史そのものの意味を再解釈して、真の神の都を帝国ではなく、永遠の至福を目指す魂の交わりの中に見出した。

Augustine, of Hippo, Saint 2014 192 min

『神の都』は、キリスト教がローマを滅ぼしたという非難に応えて13年にわたって書かれた、アウグスティヌスの神学的防御と構築の傑作である。この第一巻は、伝統的な信仰が地上的な繁栄や永遠の幸福を約束するという異教徒の主張を粉砕する前十書の持続的な反駁を含み、それに続いて第十一書から第十三書において、彼の肯定的ビジョンの始まりを示す。ここで彼は、二つの社会的秩序の起源を天使たちの原初的な分かれへと遡る。現れるのは単なるキリスト教への弁明ではなく、帝国の運命を創造から堕落、通过そして最終的な審判へと広がる唯一絶対神の見えない摂理に服属させる歴史哲学である。

アウグスティヌスは、ヴァッロが人間的な事柄を神的な事柄の前に記したのは、国家が宗教制度に先立って存在していたからだとの観察する。アウグスティヌスは、この配列がこれらの「神々」が人間の創造物であり、自然に先行する神的な存在ではなく、絵画や建築のように人間によって造られたものにすぎないと証明されると論じる。ヴァッロ自身が認めたように、もし彼が新しい国家を建国するなら、自然の順序に従って書くであろうが、古い国家を描写しているのでその慣習に従った thereby 虚偽を暗黙のうちに認めたことになる。アウグスティヌスは、ヴァッロのこの微妙な配列が、真理を慣習より優先させる彼の傾向を明らかにしていると主張する。すなわち、人間事象の真の歴史の後に人間の虚偽の制度を置くことで、彼が神的な本性についてではなく、人間の誤りについて書いていることを効果的に告白しているのである。人間の歴史を神的な制度の前に置くことで、ヴァッロは誤って、神々が国家によって創られたものであり、国家が神々によって建国されたものではないと証言することになった。

次にアウグスティヌスは、ヴァッロの神学の三つの区分——神話的、自然的、市民的——を分析する。ヴァッロは詩人の物語である神話神学を、卑劣で神々にふざわしくないもの、盗み、姦通、隷属の物語に満ちたものとして非難する。しかしアウグスティヌスは、市民によって祭司によって執り行われた儀式から成る市民神学,以及び哲学者の自然神学が、神話神学と切り離せないように結びついていると論じる。彼は劇場の神々は神殿の神々と同じであり、国家がこれらの神々を敬意を表するために劇場を設けたことは、これらの神々の儀式が本質的に劇場的で猥褻なものであることを証明すると主張する。アウグスティヌスは市民神学が神話で見出される忌むべき内容そのものを組み込んでいることを示すために、広範な証拠を提示する。彼は舞台にも神殿にもプリアポスが存在することを引用し、祭司のプリアポスは役者のプリアポス同样に猥褻であると指摘する。さらに、カピトリヌスの丘にユピテルルの乳母を置いた者たちの不合理さを指摘し、そのような行為によって彼らはユピテル自体についてどのように考えていたのかを問い、また、すべてのそのような神々がかつての人間で смертные 者たちであったと記した歴史家エウヘメロスに証言していると指摘する。さらにアウグスティヌスは、ユピテルルの食卓の寄生虫としてエプロネスを任命した者たちを強調し、彼らが模擬的な聖なる儀式以外何も望まなかったと論じる。さもなければ役者が舞台でこれを言ったら、彼は笑いを求めていたであろうに、ヴァッロはこれをカピトリヌスの丘の法の厳肃な記述として記録している。舞台と祭壇の区別は存在しない;物語を喜ぶ悪魔たちは、供物を受け取る同じ霊たちである。

彼はさらに、ヘラクレスの聖器管理者が神と賭けを行い、遊女を雇ったという物語を語っている。この物語はあまりにも恥ずべきものであり、もし詩人がこれを発明したのであれば、寓話として退けられるであろうに、聖なる行事として受け入れられている。アウグスティヌスは、公演される劇と、衆神之母とケレスの秘密儀式とを対照させ、後者が去勢された祭司(Galli)や若者の死を嘆く儀式を含むものは、舞台上で見られるどんなものよりもはるかに忌まわしいものであると論じる。

彼は、異教徒によって提供される「自然的」あるいは寓意的な解釈が、これらの不道徳を正当化することはできないと主張する。サトゥルヌスが子供たちを飲み込むことが、時間が自分の産物を消費するという寓意として解釈できるのであれば、神話同样に許されることになるかもしれないが、瓦羅は神話は拒絶しながら儀式は支持している。

瓦羅の著作は、国家神学を虚構の神話物語の集積として提示し、国家によって上演されるこれらの虚構讀本への軽蔑をImplicitに読者に導く。彼は、国家神学を拒絶し、哲学者の自然神学のみを受け入れるようImplicitに読者を導いている。儀式に対する物理的解釈—たとえば種の剪定を象徴する去勢のように—は、その行為の道徳的汚点を拭い去ることはできない。

神々の极端な専門化は、神的威厳よりも道化の茶番に近い。食物を与える女神エドゥカと飲料を与える女神ポティナのように、人間の主人が生まれたばかりの赤ん坊に対して二人の保姆を使うならば、それは家で道化にふさわしい振る舞いと見なされるであろう。しかし古代ローマ人は生命の養育を、一連の取るに足らない明確な神的介入の連鎖へと還元した。

彼はさらに、人間の生理機能と婚姻を司る猥褻な神々に注意を向け、その存在が婚姻の寝台を行為不行跡と道化の茶番の場へと変えてしまう。彼は、結婚の様々な段階で祈念される神々列举する。結合させる神ユガティヌス、嫁を家に連れてくる神ドミDukeス、嫁をその家にいるようにさせる神ドミティウス、そしてそこに留まらせる女神マントゥルナである。

成就の行為そのものが神々の群れによってmicromanagedされるとき、神聖な介入はさらに滑稽になる。アウグスティヌスは、処女の帯を解く女神ウェルギニエンシス、女性を男の下のものに押し付ける神スビグス、彼女をそこに固定する女神プレマ、そして挿入の行為を司る女神ペルトゥンダを引用する。

神々がそのような親密な瞬間に存在するのであれば、彼らは помощиではなく恥辱を引き起こすはずである。ペルトゥンダのような女神の存在、あるいは巨大な男性器が花嫁に提示されるプリアプスの存在は、この神学が単に虚偽であるだけでなく、好色で堕落していることを示している。

ウェヌスのような単一の神がこの任務に不十分であれば、神々の増加は神聖な人間の結合を、宗教に値する荘厳さよりも道化に値する茶番へと変えてしまう。

結婚の床を超えて、アウグスティヌスは批判を農業と出産の神々にまで広げる。新たに母となった女性をシルウァヌスという神から守るために行われる具体的な儀式を指摘するのだ。三柱の準神がシルウァヌスを退ける守護者として任命されていると説明する。シルウァヌスは粗野で未開な森林の神として描かれ、出産中の女性を侵犯する傾向があるとされる。これらの守護者の存在を示すために、夜間に三人の男が家の周囲を回り、農業用具で象徴的な行為を行わなければならない。まず、手斧で敷居を打って木を伐採することを象徴する。次に、杵で打って穀物をひくことを象徴する。そして三番目に、箒で掃いて穀物を積み上げることを象徴する。この三つの行為から、三柱の特定の神が名付けられる。インテルキドナは手斧による伐採から名付けられ、ピルールムスは杵から名付けられ、ディウェッラは箒から名付けられる。アウグスティヌスは、善意の神々の守護では悪戯好きな神の悪意に対して十分でないという考えをあざけるように批判する。善意の神々が三対一の優位を必要とし、農業の象徴的な道具を持って互いに戦わなければならないのはなぜかと問うている。彼はこれが神々もまた人間のように弱々しく争い深く、互いに斧や杵や箒を使用して守らなければならない神学を明らかにしていると論じる。シルウァヌス、インテルキドナ、ピルールムス、ディウェッラのような取るに足らぬ神々で満ちたこの入念な儀式は、神々界を些末で争いの絶えないものとして描き上げ、永遠の生命を授ける力は完全に欠如していることを示している。アウグスティヌスはさらに、瓦ロの「信仰深い人間」と「迷信的な人間」の区別における矛盾を指摘する。神々が本当に慈悲深く無害であるならば、なぜ神々の一員である者の悪意に対してそのような入念な防衛を必要とするのか。これらの儀式の必要性は、これらのいわゆる神々の慈悲深さではなく、むしろ取るに足らぬこと、争い好きで滑稽な性質を裏切っている。

論点を強化するため、アウグスティヌスは哲学者セネカを引用する。セネカは瓦ロよりもさらに激しく国家宗教の迷信を批判した。セネカは神々の像と信者の狂気じみた行動―自傷や血を流すこと―をあざ笑い、そのような崇拝を要求する神々は怪物であり神ではないと主張した。神殿の役人が神々の理髪師や弁護士であるかのように振る舞う不合理さを描き、カピトリヌスを道化芝居の舞台のように扱うことを非難した。しかしアウグスティヌスは、セネカが批判にもかかわらず、政治的慣例から儀式に参加し続けたことを指摘する。本気で信じ込むことよりも役を演じることの方が好ましいと気づいたからである。セネカは賢者に、神々にとって心地よいかのように法を守りながら、内的にはそれらを単なる慣習として軽蔑すべきだと忠告した。アウグスティヌスはまた、セネカがユダヤ人に対して持つ惜しみない敬意にも言及する。ローマ人と異なり、ユダヤ人は自分たちの儀式の理由を理解していたことを認め、これが彼の一般的な風習への軽蔑にもかかわらず、彼らの優れた知恵の証だとしたのだ。セネカは、征服されたユダヤ人が征服者に法律を与えたことを観察したが、この言葉は不知のうちに真の神の力についての証言となった。セネカはこうした迷信に逆らう著作を書く自由を持っていたが、それから自由である勇气 жизнь,敢えて行動する勇気が欠如しており、非難しながら崇拝する偽善者として留まった。

結論として、アウグスティヌスは、寓話神学と公民神学の神々が空虚で恥ずべきものであり、人類によって創られたものであることが証明されたのだから、それらは永遠の命の源ではあり得ないと主張する。彼は永遠の命を果てのない幸福――真の至福――として定義し、それは至福の授与者である真の神からのみ来るものであると述べる。悪霊である異教の神々は真の幸福を与えることができず、したがって永遠の命を与えることもできない。アウグスティヌスは、真の幸福はフェリキタスという女神ではなく神の賜物であり、自然の創作者である神のみが超克する命を与えることができると論じる。公民神学の空虚さを十分に実証した後、アウグスティヌスは因襲的な習慣に未だ捉えられている者のために次の書で論駁を続けることを約束するが、理性ある者はそのような神々に魂の救いを求めてはならないと主張する。彼は公民神学を悪霊に触発された寓話の集大成として退け、理性ある魂に値しないものとし、不死への希望は全ての存在と全ての至福の源泉である神のみに置くべきであると肯定する。論証は完了した。神々が地上的な財を与えることができず、その性格と儀式において道徳的に忌まわしいものであるならば、彼らは人間の真の目的である永遠の幸福を与えることに全く不適任である。

アウグスティヌスの公民神学のパラダイムに対する決定的な拒絶は、重要な問題を残している。普通の神々が不適切であることが証明されたならば、人類の永遠の命に対する 궁극的需要に応ずることのできる、より精选で価値ある神々の階級が存在するのだろうか。先行的論証は、ローマの市民的・劇的伝統で賞賛された神々の大多数が、混乱と道徳的腐敗以外に何も提供しないことを実証した。しかしヴァッロ自身は、この圧倒的な神々の群れと、ローマの宗教的階層においてより荘厳な位置を占める、より小規模で精英的な「選定神々」の集団とを区別していた。アウグスティヌスが今検討しようとするのは、まさにこのより有望なカテゴリーであり、これらの丁寧に厳選された神々が 凡庸な大衆に値しない崇拝と信頼に最終的に値するものかどうかを探究しているのである。

アウグスティヌスはこの第七巻において、論証の牧会的必要性とその永遠の stakes の両方を確立することから始める。彼は、より鋭い知性を持つ読者が既に先行する諸巻で十分だと気づいていることを認めつつも、古くからの誤謬に未だ巻き込まれている者たちのために、執拗な労苦に我慢してくれるよう求めている。彼の前にある課題は、何世紀もの人間の誤謬が未啟蒙な精神に深く刻み込んだ邪悪な意見を根絶やしにすることである。彼は自分の業を神の恩寵への貧しい協力として位置づけ、真の神の助けに完全に依存する。危機に瀕しているのは人間への真の神性の推薦であり、たとえ地上的な利点がどれほど必要不可欠であっても、それは永遠の命のためであり、幸福的であるのは永遠の命のみである。

第六巻において、公民神学――多くの神々を伴う確立された国家礼拝――が永遠の命を与えることができないことを実証した後、アウグスティヌスはいわゆる「選定神々」がこの至上の目的のためにより值い崇拝を得られるかどうかを検討する。これらの選定神々は、ヴァッロがその最後の書において、より大きな神々の群れから区別した、より小規模で精英的な集団を構成する。アウグスティヌスは、選ばれなかった神々を悪いと宣言するように洋葱を選ぶようなものだというテルツリアヌスの気の利いた排斥を慎重に距離を置いて考察する。選定それ自体は、必ずしも選ばれなかった者を非難するものではないとアウグスティヌスは認める。兵士は選ばれ、その中から他の者がより高位の奉仕のために選ばれる。教会では監督者が選ばれ、信徒の残りを排斥することはない。隅の石が選ばれ、他の石を排斥することはない。したがって問題は、選定が正当かどうかではなく、これらの選定神々が何であり、なぜ они が精选されたのかということである。

ワローは二十柱の選出された神々を特定する:ヤヌス、ユピテル、サートゥルヌス、ゲニウス、メルクリウス、アポロン、マールス、ウォルカヌス、ネプチューン、ソル、オルクス、父リベル、テルス、ケレース、ユーノー、ルナ、ディアナ、ミネルウァ、ウェヌス、ウェスタ——十二柱の男神と八柱の女神である。アウグスティヌスは直ちに根本的な問いを提起する:これらの神々は、宇宙においてより上位の統治領域を司るから選ばれたのか、それとも単に より広く知られるようになり、より多くの民的崇拝を受けたからだろうか。前者であれば、彼らは些細で取るに足らない任務に割り当てられた平民的な神々の群れの中に見出されるべきではない。アウグスティヌスは次に、破壊的とも言うべき生殖過程の検証を通じて、選出された神々が最も下賎な任務に従事している一方、名もなき神々がはるかに優れた機能を果たしていることを示す。

胎児が受精すると、ヤヌスが精子を受け入れるための道を開き、サートゥルヌスが種そのものを司り、リベルが男の精子の放出を可能にし、リベラ(ウェヌスと同定される)が女性のために同じことを行い、選出された神々の女王ユーノーが、月の女神メーナと共に月経を司る。しかし、二柱の極めて知られていない神々——ウィトゥムヌスとセンティヌス——が胎児に生命と感覚を与えている。アウグスティヌスが強調するように、これらの贈り物は選出された神々のそれよりも比較にならないほど偉大である。生命と感覚がなければ、胎児は単なる粘液と塵に過ぎない。精子の受容、播種、放出は、胎児が生命を得ない限り無価値である。よって、名もなきウィトゥムヌスとセンティヌスは、ヤヌスやサートゥルヌスよりも選出された神々の列に加えられるべきである。

アウグスティヌスは次のような擁護を予期する:ヤヌスはすべての始まりを統治し、サートゥルヌスはすべての種を統治し、リベルとリベラはすべての放出を統治し、ユーノーはすべての浄化と出産を統治していると。しかし彼は質問を重ねる:ウィトゥムヌスとセンティヌスは、すべての生きて感じるものを統治のだろうか?そうであれば、その地位は崇高であるべきである、なぜなら生きて感じること——これは天体の属性にも帰せられる——に対して、種から発芽することは地上的なものだからである。彼らが肉体的生命のみを統治するなら、なぜ生命と感覚の普遍的支配者自らがこれらの贈り物を直接与えないのか?そしてもしこれらの最も卑しい事柄が下僕として小さな神々に委譲されたのであれば、選出された神々は従者がそれだけ不足しているので、不名誉な者と共に働かなければならないのだろうか?ユーノー自身、女神々の女王が、名もなきアベオナとアデオナと共に少年たちの旅路的導者として仕えている。少年たちに善い心を与える女神メーナ——これはミネルウァに割り当てられた記憶よりも優れた贈り物である——は、選出された神々の外にいる。美徳と幸福は女神として認められながらも除外されている一方、死を引き起こすマルスと、死者を迎えるオルクスは含まれている。

選出された神々が些細な任務で名もなき神々と共に労働しており、より偉大な贈り物が選定に値するとみなされていない神々によって与えられているのだから、アウグスティヌスは選定が功績ではなく一般的な名声に基づいていると結論する。ワロー自身は、父なる神々や母なる女神々に名声の衰落が起きたことを認める——ちょうど男性に名声の衰落が起きるようにである。選定が功績ではなく偶然によって行われたのなら、運命の女神自身が選出された神々の最高位を占めるべきであった、なぜなら彼女は気まぐれに贈り物を分配し、功績ではなく気まぐれによって物事を有名にしたり無名にしたりのだから。しかし運命は選出された神々のなかにいない。おそらく運命女神さえ逆境の運命に見舞われ、自分自身は無名のまま他の者を有名にしているのかもしれない。

この名声について、アウグスティヌスは観察しているように、有力な神々にとっては名誉よりも害をもたらした。影の神々は、そのまさに曖昧さゆえに、汚名の重圧から守られてきた。アウグスティヌスは言う、銀細工師の通りの職人たちが、一人の完璧な職人が仕上げることのできる器を多くの手を通じて渡すように、多くの神々に些細な機能を分配することを笑うことができる。だが、犯罪によって汚名を自ら招いた影の神はほとんどいない一方、有名な汚名の烙印から免れた有力な神もほとんどいない。有力な神々は影の神々の卑しいわざに降りてきたのに対し、影の神々は有力な神々の崇高な罪に昇っていない。ヤヌスだけは比較的無実に見える——逃げるサトゥルヌスを喜んで迎え、その王国を彼と分かち合った。だが、礼拝において不適切なものを見つける者たちは、怪物的に変形した像で彼を辱め、二つの顔、さらには四つの顔を彼に与えた——まるで彼のより大きな無実により多くの顔が必要であるかのように。

アウグスティヌスは今、異教の神学者たちが神話に深淵な教説の外見を与えて高尚化しようとする物理的解釈に移行する。ワロはこれらの解釈を強く稱賛し、古代人が神的偶像を発明したのは、崇拝者たちが肉体の目で見それらを見ると同時に、心の目によって世界の魂とその一部分——真の神々——を知覚できるようにするためだと主張する。人間の形は理性的な魂を象徵する——ちょうどリベル神殿のワイン容器がワインを象徵するように。アウグスティヌスはワロの博学を認めつつも、その魂、そのとても鋭くて博学な魂が、これらの神秘を通じてその神——それによって造られ、それとともに造られたのではなく、それにとって一部ではなく作品であり、すべてのものの魂ではなくすべての魂の創造者であり、その光のもとでのみすべての魂が至福を見つける——に到達することができなかったことを歎く。

ワロの自然神学は、神は世界の魂であり、世界自体が神であると主張する。賢人は身体と精神からなっているながら精神から賢人と呼ばれるのだから、世界も魂と身体からなっているながらその魂から神と呼ばれる。世界は天と地に分かれ、それぞれ細分化される——天はエーテルと空に、地は水と陸に。四つの部分はすべて魂で満ちている——エーテルと空の魂は不死、水と陸の魂は死すべきもの。最も高い天から月の軌道までは星と惑星、見える神々である。月の軌道と雲の間には空の魂があり、心によって知覚され、英雄たち、守護霊、守り霊と呼ばれる。この自然神学はワロだけでなく、多くの哲学者たちを満足させてきた。

アウグスティヌスはヤヌスについて詳細な批判を始める——ワロはヤヌスを世界と同一視する。始まりがヤヌスに属し、終わりがテルミヌスに属するなら、その分割は失敗する。世界で始まるすべてのものは世界の中で終わるのではないのか?これらの力の分離は論理的に不合理である。二つの顔を持つ像は、人間の口蓋とその二つの開口部——口と食道——を表現すると解釈される——この比較をアウグスティヌスはばかげていると思う。ヤヌスが四つの顔で描かれるとき、これは世界の四つの地域を表現すると言われる。だが、ヤヌスが世界であって、世界に四つの地域があるなら、二つの顔を持つ像は虚偽である。二つの顔を持つ像は、世界を東と西として理解できるのだから真実だと言うなら、四つの顔を持つ彼を「二重」と呼ぶのは首尾一貫していない。この虚栄から免れる魂はなく、ただ「私は門である」と告げる真理を聞く魂だけが免れる。

ユピテルは、何かが生成する原因を支配する力を持つ神として定義される。ウァロは、ヤヌスが第一のものを司り、ユピテルが最も高位のものを司るのだから、ユピテルこそ王である、なぜなら最初的事物は時間的には先行するが、最も高位の事物は気高さにおいて勝るからであると論じる。アウグスティヌスはこれを解体する。能動的原因是常にその産物を優先するものであり、したがって原因を司るユピテルは、始まりを司るヤヌスに優先する。さらに、ユピテルが原因の神であるならば、神話に見られる卑劣で犯罪的な行為を彼に帰することは衝撃的な神聖冒涜である。これらの犯罪を世界の支配者である彼に帰するよりも、虚構に帰する方がましである。

ヤヌスが世界であり、ユピテルもまた世界であるならば、なぜ別々の神殿、祭壇、儀式、像を持つ二柱の神なのか。区別が始まりと原因の異なる本性に基づいているならば、二つの任務を果たす一人の人間が二人の人間になるのか。アウグスティヌスはユピテルの多くの別名——ウィクトル(勝利者)、インヴィクトゥス(無敵者)、オピトリウス(救済者)、インプルソル(扇動者)、スタトル(安定者)、ケントゥムペダ(百足)、スイピナリス、ティギルス、アルムス、ルミヌス——から、多様な力は複数の神を必要としないことを例示する。原因と始まりの機能は、ティギルス(世界を引き結びつける)とルミヌス(動物に乳を与える)よりも相互に近い,然而后者并不需要两位神。アウグスティヌスは Pecunia(富)の別名を嘲笑し、賢者も欲しなかったものの名で神々の王を呼ぶことは卑劣で軽蔑に値すると論じる。

播種を司るサートゥルヌスと生成を司るゲニウスは、どちらもユピテルに吸収される。世界はすべての種子を放出し、受容するからである。メルクリウスとマルスは世界の 部分轻易に結びつかないため、人間の行為——言葉と戦争——に割り当てられる。メルクリウスが言葉ならば、彼は神ではない。マルスが戦争ならば、彼は神ではない。星について言えば、いくつかの神々は惑星等同視される,然而ユピテル星はヴィーナス星より暗い——神々の王としては奇妙な状態である。ヤヌスは星を持たない,尽管他是世界。黄道帯の星座は、それぞれ多くの星を含んでいるが、神として崇拝されていない。

アポッロとディアナは太陽と月に等同視される。ウゥルカーヌスは火に、ネプツヌスは水域に、冥府の父リスは下方の地に、リベルとケレースは種苗に、ミネルウァはエーテルまたは月に等同視される。結果は混沌である。一つの神は多くのもの、一つのものは多くの神々である。ウァロさえ疑念を表明し、確実性ではなく意見を述べたことを認めた。アウグスティヌスはより信頼できる起源を提案する。これらは人間であり、詩人によって神格化され、恶魔によってその儀式が利用されたものである。

アウグスティヌスはサートゥルヌスの神話的具体的な解釈を検討する。サートゥルヌスが彼の子供たちを飲み込むことは、種子が地に帰ることとして解釈される。ユピテル代わりに与えられた石は、耕起前に埋められた種子として解釈される。アウグスティヌスはこれが説得力がないと认为——サートゥルヌスが種子ならば、彼は種子の原因でありえない。土で種子を覆うことは、飲み込まれることから救うのではなく、そうなることを確実にするだけである。サートゥルヌスに与えられた剪定ナイフは時代錯誤である、彼の統治的时代には農業が存在しなかったからである。彼への人身供儀は残酷な虚栄である。これらの解釈は、生きた、非物体的で不変の本性である真の神に決して到達せず、物体的で、一時的で、変容可能で、死すべきものの中に終わる。

ケレースの儀式は穀物とプロセルピナの喪失と帰還(肥沃さ)に関連すると解釈される。しかしリベルの儀式は恥ずべきものである:イタリアでは、男性器が十字路で戦車に乗って崇拝され、ラウィニウムでは、名誉ある良家の妻が公然とそれに王冠をかぶせることを強いられた。このよう醜悪さは永遠の生命へと導くことはできない。ネプツヌスの妻サルキアとウェニリアは、引、退き寄る波と押し寄せる波として解釈されるが、一つの波を表現している——女神たちの増加は魂の売春のために悪魔を増やすことにすぎない。

地の女神たちはさらなる混乱をもたらしている。大地女神はテルルスであると同時に、ユノ、マーテル・マグナ(大母神)、ケレース、プルートー、ウェスタ、テルムオ、アルトル、そしてルソルでもある。ヴァローはこれらを多くの名を持つ一人の女神に還元しようと試みるが、それらは依然として多くの女神として崇拝されている。大母神的去勢された祭司であるガッロイは、残酷な忌まわしい行為を行う。ポルピュリオスの解釈——アティスは、果物が現れる前に落ちる花を象徴する——は失敗している、なぜなら生殖器は自然に落ちるのではなくに引き裂かれて取り除かれ、その結果是不毛となるからである。大母神の儀式は、ユピテールの放縦さを残虐さにおいてさえ凌駕している、なぜならそれは男性を単に辱めるのではなく損傷を加えるからである。

アウグスティヌスは全体としての自然神学を非難する。これらの神々が世界の諸部分であったとしても、世界或其れの一部を崇拝することは真の神を崇拝することではない。醜悪な儀式で真の神を崇拝するなら、崇拝のあり方において罪を犯す;そのような儀式で被造物を崇拝するなら、二重に罪を犯す。ヴァローがこれらの神々を自然的理性に還元しようとした試みは、儀式自体があまりに残虐であるため、いかなる自然的理性もそれらを正当化できないから失敗する。全国家神学は、邪悪で不潔な霊を引きつける手段を発明することに明け暮れている。それらの霊は無感覚な偶像を訪れ、愚かな心に入り込む。

真の起源は、悪魔によるとアウグスティヌスは論じる。彼はヌマ・ポンピリウスの物語を語り伝える。ヌマは聖なる儀式の真の原因を記した書を書いていた。ヤニクルム丘で農夫がその書を発見し、法務官に持ち込んだとき、元老院はその原因を読んだ上で、それらを焼くことを命じた。彼らは、知識が生み出す混乱よりも無知から生じる誤謬を好んだ。ヌマは水利占卜——降霊術——を通じてこれらの儀式を学んだ。水中に出現する悪魔に相談ずけたものである。悪魔は彼に穢れた儀式を教え、その原因はあまりに忌まわしかったため、元老院は祖先伝来の伝統への畏敬にもかかわらず、その内容が知られることに耐えられなかった。

この歴史的記述は、自然的解釈が単なる虚構に過ぎないことを決定的に証明する。ヌマの書に高潔な自然的原因が記されていたなら、元老院は決してそれを焼くことはなかっただろう。ローマの父たちが宗教制度に尽力しながらも、その内容を知られることを許すよりもむしろこれらの書を廃棄する必要があると判断したという事実は、儀式の真の原因が自然の作用ではなく悪魔の忌まわしい教えであったことを示している。ヌマ自身は、神の預言者も聖なる天使も持たず彼を導く者がいなかったため、ペルシアから導入された占卜の一形態である水利占卜に頼った。水中で神々の像——むしろ悪魔が彼を弄んだ出現形象——を見るために。この降霊術によって、彼は聖なる儀式を学び、それらを制定したが、その原因は隠したままだった。彼は他の者たちにその不名誉な内容を教えることを恐れ、またそれを破壊して悪魔を怒らせることも恐れて、自分の墓に書を埋めた。元老院がそれを焼くことを決めたことは、異教的国家さえもこれらの悪魔的秘密の危険を認め、無知の誤謬の方が自分たちの神々についての真理を知る<delete_file>混乱よりも我慢できると,判断したことを明らかにする。こうして全国家神学は、自然の哲学としてではなく,不潔な霊との交わりから派生した迷信の体系として暴露される。

結論として、アウグスティヌスはこの断片的で不道徳な、悪魔に触発された礼拝を真の宗教と対比させる。多くの神々に帰せられるすべての機能——始まり、原因、種子、言葉、戦争、火、水、光体、生命、感覚——は、天地創造者であり、世界の一部ではなくその製作者であるところの唯一の真の神に属する。この神は恥ずべき儀式ではなく、御子イエス・キリストを通じて永遠の生命を授ける。永遠の生命の神秘は、最初から預言され、天使たちを通じて告げられ、ヘブライ人の預言者たちによって宣べ伝えられ、人類を悪魔の支配から解放するキリストにおいて成就された。天地を造った真の神は、すべての魂とすべての身体を創造し、すべてを統治しながら、それらに各自の適切な運動を行わせている。それらは祂なしには何もありえないが、しかし祂がそうでいるようにそれらがあるわけではない。祂は天使たちを通じて多くのことを成されるが、天使たちを至福にするのは祂御自身からだけである。同様に、祂は人間ニーズに仕えるために天使たちを遣わされるが、人類を至福にするのは、天使たちが内在する善さによってでもなく、祂御自身によってであり、天使たち自身に対してするのと同様にそうされる。

全人類に授けられた自然の共通的利益を超えて、真の神は善い者に取って残る特別な愛の顕現をしておられる。存在、生命そのもの、私たちが祂を求めることを可能にする理性的な心について、私たちは決して十分に感謝することはできないが、私たちが罪の中で見捨てられなかったという事実に対して、最大の感謝が不可欠である。私たちが闇の愛によって目を曇らせ、御光の側から背を向けているにもかかわらず、祂は御言葉を受け、唯一の御子を送って私たちの肉体を承受させられた。祂の誕生と受難を通じて、神が人類的价值に置く途方もない価値を示し、祂のユニークな犠牲によって私たちをすべての罪から清められた。祂の霊を通じて私たちの心に愛が注がれることで、私たちはすべての困難を克服し、永遠の安息に入り、御自身である神を見つめることで言い表すことのできない甘甜を見出すことができる。

この永遠の生命の神秘は、過去の時代に欠けていたのではなく、いつも存在しており、時代に合ったしるしと秘跡を通じて告げられていた。人類の始まりから、天使たちはそれを受け取るように選ばれた人々に告げた。ヘブライ人は、この神秘の管理者となるために国家としてまとめ上げられた。その国民の中で、キリストの降臨に関する出来事が預言された——有时候は自分の言葉を理解していた預言者によって,有时候は理解していなかった者によって。随后、この民は約束の救いを含む聖書を証するため诸国民の間に散らされた。預言、道徳的命令、そして儀式的遵守——祭司職、聖所、犠牲、儀式——すべてが、キリストを信じる者たちが今や成就されたのを見るとおり、または成就しつつあるのを見、または確信に満ちた希望を持って待つ現実たちを預表し預言していた。

この真の宗教だけが、諸国の神々を不浄な悪霊として暴露したものである。これらの霊は神として崇拝されることを欲し、死者の名を盗み、または生き物の姿を装い、低劣で恥ずべき栄光を喜びながら、人間の魂が真の神へと改宗することをねたんでいる。人類はキリストへの信仰によって、これらの残酷で不敬な支配から解放される。キリストは、傲慢の堕落から私たちが立ち上がるために、謙遜の模範を授けられたのである。したがって、他の諸国の多くの神々だけでなく、美徳ではなく悪名高い犯罪のために神々の元老院に選ばれたこれらの特別の神々さえも、欺瞞であることが明らかにされる。ヴァローは神聖な儀式を自然的な理屈に帰して、低劣なものが尊く見えるようにしようとしたが失敗した。儀式自体が自然によってではなく悪霊の欺瞞によって生じたからである。もしそれらが自然的なものであれば、儀式の冒涜を緩和することができたかもしれないが、現にあるとおり、それらはただ悪霊の嘲弄を明らかにしているだけである。真の宗教はこれらのものを暴き打ち破り、代わりに創造主の礼拝を提示する。創造主は身体の切断や劇場の狂気によってではなく、真理による魂の聖化によって永遠の命を与えられる。

真理による魂の聖化によって永遠の命を与える不変で唯一の神の礼拝を中心に据えた真の宗教が、悪霊の断片的で道徳的に破綻した崇拝と鋭く対比することが確立されたが、アウグスティヌスは今、異教徒の寓話と慣習の批判から、哲学者自身が神性について推論したことに目を向ける。ローマの詩人と祭司たちが儀式によって至福を生み出すことが不可能であることが証明されたのだから、自然神学において真の神をいくらか垣間見た古代の偉大な思想家たちが至福へのより確実な道を提供するかどうかという疑問が自然に浮かぶ。アウグスティヌスが示すように、哲学者たちは確かに神性の存在とその人間事への配慮の両方を認めながらも、頑なに唯一の不変の神は不十分であり、多くの被造の神々への礼砲が必要だと主張している。この立場を評価するために、アウグスティヌスは主要な哲学流派を注意深く調査する。この調査は、彼の有名なプラトン主義者との論考で頂点に達する。彼らの教えは、彼の主張によれば、キリスト教信仰の真理に最も近いものである。

アウグスティヌスは今、すでに検討した寓話神学と市民神学から、哲学者が自然神学と呼ぶものに目を向ける。これははるかに要求の厳しい探究である。問題は、この自然神学が認め認める神々への崇拝が、来世において至福を保障できるかどうかである。この議論は一般市民ではなく、知恵を愛すると宣言する者たちとの対話が必要である。しかし哲学者という名が必ずしも実体を保証するものではなく、アウグスティヌスは流派の中から堂々と論争できる者を選ばなければならない。彼は思考者たちが神性が存在し人間事に関係すると認めながらも、唯一の不変の神への崇拝は至福を得るのに十分だと否定する者に範囲を絞る。これらの哲学者たちは、最高神がそれぞれの領域に任命した多くの被造の神々が神聖な儀式を受けなければならないと主張する。この点において彼らはヴァローを超えて真理に近づいている。なぜならば、彼らは神をすべての霊的性質の遥か上に存在し、見える世界とすべての魂の両方の創造主として、また理性的魂がその不変で非形体的な光への参加によって至福を与える者として認め合っているからである。

プラトーン派と対決するための適切な文脈を確立するために、アウグスティヌスはその前に出た哲学的伝統を概観する。ギリシャの知的歴史は二つの主要な学派を記録している:かつて Magna Graecia と呼ばれていたイタリアの一部に起源を持つイタリア学派と、現在もギリシャとして知られている地域から起きたイオニア学派である。サモスのピタゴラスがイタリア学派を創設し、「哲学」という用語を作り出したと言われた。なぜならば、彼は自分を賢者と呼ぶことを極度の傲慢と考えておりますでしたら、知恵を愛する者というより謙虚な称号を好んだからである。ミレトスのターレスは、著名な七賢者の一人で、イオニア学派を創設し自然の原理を探求したことで名声を得た。彼は水が万物の第一原理であるとしましたが、創造の素晴らしい業の上に神的な心を置くことはしなかった。彼の後継者たちは様々な唯物論的宇宙論を発展させた:アナクシメンデルは 각각の物が各自の適切な原理から生じると教え、アナクシメネスはすべての原因を無限の空気に入れた。そしてアナクサゴラスは神的な心が万物の生産的原因でなければならないことを洞察し、ディオゲネスは太初の空気に神的な理性が備わっていることを付け加えた。アルケラオスはこれを拡張し、神的な心に貫かれた同種の粒子たちが実在を構成すると教えた。ソクラテス自身がアルケラオスに師事していたため、この系統はプラトンへと続いている。

ソクラテスは哲学を自然現象の調査から人間行動の是正へと方向転換した。彼は物事の究極の原因は唯一にして至高の神の意志に依存していることを認識し、そのような原因は地上的な情熱から浄化された心にのみ把握され得ると理解した。彼の方法は、知識があると主張する人々の無知を暴露することを含み、時には自分の無知を告白し、時には自分の知識を隠した。この実践は彼に強力な敵を作り出し、虚偽の罪で告発されて、有罪と処刑につながった。しかし、彼を殺した都市は後に悔い改め、その怒りを彼の告発者たちに向けた。ソクラテスは多くの弟子を残し、彼らは至高の善について互いに論争した。なぜなら彼の弁証法的方法は問題を提起するだけで打ち砕くだけだったから、彼の追随者たちは多様で対立する流派を形成した。有些人々は最終的な善を快楽に見いだし其他人々は美徳に、依然其他人々は全く異なる終末に見いだした。

ソクラテスの弟子の中で、プラトンはすべての残りを凌駕する輝かしさと名声を持っていた。名誉なアテナイ人の両親の間に生まれ、注目すべき自然な賜物を授けられ、彼は行kapalan 知識のマスターするために広く旅した。彼はエジプトで学び、その後イタリアへ赴き、そこでピタゴラスの伝統を吸収した。彼はプラトーンを敬い自分を dialogue の主な発言者に据えたものの、プラトンは師の道的強調とピタゴラスの冥想的深さを結合させた。したがって、哲学の積極的および冥想的次元を統一することで哲学を完成させたとして彼に功劳が帰せられている。プラトンは哲学を三つの部分に分けた:道徳的部分は行動と人生の規制に関する;自然的部分は物事の原因を探求する;理性的部分は真偽を区別する。プラトンを最もよく理解している人々は、神において実在の原因、理解の光、およびすべての人生が向かうべき終末が見つかることを認めている。

プラトンがかくのごとく、神を知り、神を模範し、神を愛し、かつ神との交わりによって至福に達する者を賢者と定義するならば、他の哲学流派と争う必要はない。プラトン主義者たちは、いかなる流派よりもキリスト教の真理に近い。虚構の神学は彼ら屈服しなければならない——神々の犯罪という舞台的な展示——同样に、神々の名において国民を誘惑する不純な悪霊を伴う市民の神学も屈服しなければならない。 Varro が天地、種、および消滅する作用を指すものとして解釈した神聖な儀式に関する解釈も屈服しなければならない。 Numa が自らと共に埋葬させた著作、そして主要の神々がかつては死すべき人間であったことを明かす手紙——これもまた屈服しなければならない。万物の原理を物体に置いた唯物論的哲学者たち——水を своегоとして用いた Tales、空気を用いた Anaximenes、火を用いたストア派、原子を用いた Epicurus——はすべて、万物の創り主であり、真理の光の源泉であり、至福の与え手である真の神を認めた者たちに場所を譲らねばならない。なぜならば、これらの唯物論者たちは、身体的な感覚に心を奴隷化したために、自分自身の中にあるものを知覚できなかったからである。外見的に見たものを内面で表象することはできたが、その精神的表象はそれ自体、身体ではなく、一つの likeness にすぎない。この表象を見つめ、これに判断する能力は、身体でも身体的イメージでもない。理性的たましいが身体でないならば、その創造者である神がどうして身体でありえようか。

プラトン主義者たちは、いかなる物質的な身体も神たりえないことを悟り、こうしてすべての身体を超えて探究を進めた。変化しうるものはすべて最も高い神でありえないことを悟り、こうしてすべてのたましいとすべての変化しうる霊を超越した。彼らは、変化しうるものにおいて、それをそのようにさせる形相は,真に存在するものによってのみ存在しうることを理解了した変わった。なぜなら,真正に存在するのは祂のみであられるからである。世界全体をその秩序正しい運動とともに考察しようとも、その中に含まれるすべての身体を考察しようとも、すべての種類の生命を考察しようとも——植物的营养的な生命から、動物の感覚的な生命へ、人間の理性的な生命へ、滋养を必要としない天使的な生命へ——すべては、絶対的に存在的那方によってのみ存在するのである。祂においては、存在すること、生きること、理解すること、および至福であることが同一である。この不変性と単純さから、プラトン主義者たちは、すべてのものは祂によって造られたが、祂自身は何者によっても造られなかったことを悟った。

理論哲学においても、プラトン主義者たちは同样に優れている。アウグスティヌスは、身体的な感覚に真理を識別する力を割り当てた者たち——感覚的知覚から観念を導いた Epikouros 派およびストア派——と彼らを比較することを拒否する。プラトン主義者たちは、心が concept するものと感覚が perceive するものとを区別し、私たちがすべてのものを理解する光は神ご自身であり、すべてのものは神によって造られたことを確認した。

実践哲学においても同样に第一位を占める。問題となるのは principal な善——それ以上何も求める必要のない最終的な目的である。身体や心の享受によってではなく、神の享受によって人間が至福になるとした者たちに、すべて屈服すべきである。プラトンは最終的な善を徳に沿った生活として定義し、神を知りかつ神を模範する者のみが徳に達することができると教えた。したがっていく、哲学することは神を愛することである——神のご本性 非物体的なものである。哲学者は神を享受し始めるときに至福になる、なぜなら愛すべきでないものを愛することは不幸をもたらすからであるが、自分が愛するものを享受しない者は至福ではないからである。

最高の神について哲学者たちが考えてきたこと—すなわち、神は万物の創造者であり、真理を知られる光であり、すべての行為が向けられるべき善であるということ—こうした思想の中でアウグスティヌスはこれらを最もすぐれたものとして認め、基督教信仰に最も近いものであることを承認している。哲学書に触れたことのないクリスチャンであっても、使徒パウロが教え たことを知っている。すなわち、一定の哲学者たちが神の見えない性質を創造を通じて知らされたのに、それを正しく崇敬せず、かえって被造物に神聖な栄光を捧げてしまったということである。クリスチャンたちは、唯一神すなわち宇宙の創造者について、プラトン派と意見が一致している。神はすべての物体よりも非肉身として、またすべての魂よりも不滅として優越している—私たちの原理、私たちの光、私たちの善である。

一定のクリスチャンたちが、プラトンの神の観念と信仰の真理との間に見られる一致に驚嘆してきた。一定の者たちは、プラトンがエジプト旅行中に預言者エレミヤに会い、あるいはヘブライ聖書を読んだのではないかとの類推を立てた。しかし年代計算によれば、プラトンはエレミヤが預言してからおよそ一世紀後に生まれ、セプトゥアギント訳の翻訳はプラトンの死後に完成した。彼が通訳を通じてこれらの書物について何かを学んだ可能性は依然として残されているちょうどエジプトの思想を研究したのと同じようにである。こうした影響を最も示唆するのは、モーセに啓示された神の名「私は在る者である」である。神を純粋な存在、不変で永遠のものとして同一視するというこの思想を、プラトーンは特に強く主張した。ヘブライ語源から든自然的理性から든、それを導いた不管、アウグスティヌスは自然神学の問題を論じる適切な相手としてプラトーン派を選んだ。

しかしここに決定的な困難がある。プロティノス、イアンブリコス、ポルフュリオス、アプレイウスといった最も著名なプラトーン派—and プラトーン themselves—all held that sacred rites should be performed in honor of many gods. This is where Augustine confronts a fundamental challenge: examining the nature of these deities and their relationship to human ritual practices. Plato’s own philosophical framework suggests a complex view of divine beings and their roles in cosmic order.

The inquiry probes the moral character of these gods, questioning whether they embody goodness or embody darker impulses. Plato’s assertion that all gods are inherently virtuous becomes a critical point of theological and philosophical investigation, challenging conventional assumptions about divine nature and human religious obligations.

The investigation reveals a profound contradiction between theatrical divine demands and ethical standards. These supernatural entities require obscene spectacles, yet such performances contradict fundamental principles of divine dignity and moral integrity. The tension emerges from a fundamental misalignment between divine commands and philosophical conceptions of true divinity.

Plato’s own philosophical framework condemns representations that degrade divine majesty, suggesting that such theatrical obscenities should be exiled from civilized society. This creates an irreconcilable conflict between divine expectations and philosophical ideals of proper worship.

The narrative of Titus Latinius exposes the cruel mechanisms by which these demanding gods enforce compliance, demonstrating their willingness to inflict suffering as punishment for delayed obedience.

Augustine’s critique systematically dismantles the moral pretensions of these deities by highlighting their base theatrical predilections, ultimately challenging the very foundation of their claimed divinity.

The contradiction at the heart of Platonic theology reveals a profound philosophical dilemma: if gods are truly good, they cannot relish what virtuous humans reject. Yet the demand for theatrical veneration suggests these beings delight in moral corruption.

Augustine forces an inescapable logical choice: either the definition of divine goodness is fundamentally flawed, or the entities demanding such worship are not genuine gods at all. The theatrical demand becomes a litmus test for authentic divine nature.

플ラ톤主義者たちが真なる唯一神ではなく多くの神々に神聖な儀式を向けることで誤りを犯したことを確立した後、アウグスティヌスは今、神的な仲介者として崇拝された存在たち——悪魔——の本性を検討し、彼らがそのような崇敬に値するかどうかを判断する。

アウグスティヌスは悪魔の本性と崇拝についての検討を始め、霊的な存在に起因される劇的な快楽について、特にプラトン主義の伝統の中で見つかった矛盾を扱う。彼は宗教儀式の特定の解釈者であるラベオが、善い神々には劇と喜びに関連するもので宥められ、悪い神々には血なまぐさい犠牲と断食が必要だと主張したと指摘する。アウグスティヌスはこれがプラトンの哲学と提起する矛盾を即座に指摘する。プラトンは神々が悪いからではなく劇を卑しいとしたため、これらの快楽を神々から奪い取ることに絶えず敢てした。プラトン主義者たちがすべての神々は善く、賢者の徳に友好であり、そう考えることは違法であると主張するなら、彼らはプラトンがこれらの善い神々から彼らが享受すると主張する快楽を奪い取った理由を説明しなければならない。さらに、神々自身もラベオの意見を反駁する。ラティニウスの事件において、彼らは単なる遊び心あるものではなく、残虐で可怕しいものとして現れたからである。アウグスティヌスはマスターの意見を従う다고主張するプラトン主義者たちにこれらの不一致を説明するよう要求する。

これに対処するために、アウグスティヌスはこれらの哲学者が提案した理性的魂の三分法——神、人間、悪魔への区分——に目を向ける。この見解によれば、神々は天の最も高い領域を占め、人間たちは地上の最も低い領域を占め、悪魔たちは空気の中間の領域を占める。本性の尊厳は領域の尊厳に一致する。したがって、神々は人間たちや悪魔たちよりすぐれている一方、中間の位置を占める悪魔たちは神々より劣るが人間たちより Superior。this superiority悪魔たちは神々と不死性を共有し、人間々と精神の情念を共有することにある。アウグスティヌスは悪魔たちが劇場の醜行と詩人の虚構に喜びを感じるのはなぜかを説明するためにこの分類が使用されると観察する——なぜならば神々は大きく離れている人間の情念に服従しているからである。結果として、アウグスティヌスはプラトンが詩人を追放することで劇的な快楽を奪い取ったのは善い神々ではなく、むしろそのようなものに実際に喜びを感じる悪魔たちであると論じる。

アウグスティヌスは Concerning the God of Socrates(ソクラテスの神について)という題名の著作を著したマダウラのプラトン主義者アプレイウスを引用する。アプレイウスはソクラテスに付き従う親しい霊は神ではなく悪魔であると主張し、神々の高い地位と人間たちの低い地位と比較して悪魔たちの中間の地位を熱心に論じる。アウグスティヌスはこの含意を追求する。ソクラテスの付き従う霊が悪魔であり、プラトンが詩人を国家から追放したなら、プラトンの意図は善い神々から彼らの合法的な快楽を奪い取ることではなく、人間の魂に悪魔たちの恥ずべき命令を軽蔑し彼らの不浄を嫌悪するよう戒めることであった。プラトンがこれらのものを禁じたことで徳があったなら、悪魔たちはそれを命じたことで恥ずべきことであった。アウグスティヌスはアプレイウスEitherがソクラテスの付き従う霊の本性について間違っているか、プラトンが矛盾した意見を持っていたか、あるいはソクラテスはそのような友情について祝されるべきではないと示唆する。彼はアプレイウス自身が悪魔という名前に付随する恐怖を認識していた듯気づいていた、読めるものを遠ざける汚名を防ぐために On the Demon of Socrates(悪魔について)ではなく On the God of Socrates(神について)という題名をつけたと指摘する。最終的に、アウグスティヌスはアプレイウスが悪魔たちの中で称賛できる唯一のものとして、教養、身体的な力、より高い居住地を見つけられるだけだったと結論する。一方彼らの行為は完全に悪いと記述された。

アウグスティヌスは、悪魔の身体的属性に基づく優位性という概念を反駁するために、真に宗教的な心は、悪魔がより優れた肉体を持っているという理由で悪魔が人間より優れていると仮定すべきではないと論じる。肉の優秀さが価値の基準であるなら、多くの獣が人間より前に置かれることになるだろう。なぜなら、獣は感覚の鋭さ、速さ、力、そして長寿において人間を超えているからだ。人間は理性と理解によって獣に勝っており、したがって、善くて徳のある 삶을生きることで悪魔にも勝るべきかぎる。アウグスティヌスは、神の摂理が悪魔により優れた肉体を与えたのは、人間も魂の清さに応じた不死——苦悩に満ちた不老ではなく——を受けることを知りながら、人生の善さとの比較において肉体の優秀さを軽蔑することを学ぶためである、と示唆する。

同様に、アウグスティヌスは、場所の高さが悪魔を優位にするという考えを退ける。大地にではなく大気中に居住することが悪魔に宗教的な服従を与えると信じるのはばかげている、なぜなら鳥もまた大気中に居住しながらも人間に服従しているからだ。たとえ悪魔が鳥のように地球に戻って休養したり食物をとったりしなくても、それは彼らを人間より優位にするものではない。アウグスティヌスは、元素の段階化が命ある存在の功績の段階化に対応しないと示唆するために、プラトン自身の元素的秩序を援用する。アプレイウス自体は、人間は地上の動物でありながら、プラトンが水を大地より上に置くにもかかわらず、水生動物に大きく先がれるべきことを認めている。これは、より高位の魂がより低位の元素の肉体に住めることを示しており、したがって悪魔の空中居住は、心の敬虔さを持つ地上の人間に対する優位性を意味しない。

アウグスティヌスは次に、アプレイウスによる悪魔の気質と行動の記述を精査する。アプレイウスは、悪魔は人間と同じ心の動揺によってかき立てられると述べている。傷害によって挑発され、贈り物によって宥められ、名誉を喜び、神聖な儀式に満足する。彼は悪魔を「本性において動物、魂において受動的、心において理性、肉体において大気中、時間において永遠」と定義する。アウグスティヌスはこの定義を分析し、動物的であることは獣に共通し、理性的であることは人間に共通し、永遠であることは神々に共通するが、その存在が祝福されていなければ利点にはならず。なぜなら、一時的な幸福は永遠の不幸より優れているからだ。魂において受動的であること——動揺に従うこと——は人間に共通し、不幸を意味する。肉体において大気中であることは彼らに固有だが、いかなる魂もいかなる肉体より優れているため、この身体的特徴は宗教的崇拝を正当化しない。アウグスティヌスは、もしアプレイウスが悪魔に徳、知恵、幸福を帰属させていたなら、これらは神から受け取った贈り物であるにもかかわらず、まだ崇拝には値しないものの、ある程度の尊敬に値したかもしれないと論じる。しかし、彼らは単に不幸な状態に陥りうる理性的動物にすぎず、魂において受動的であり、その不幸において永遠であるため、神聖な名誉に全く値しない。

悪魔の魂の「受動的」性に焦点を当てて、アウグスティヌスはなぜ悪魔が情動の旋風によってかき立てられるのか、獣はそうではないのかと問う。獣において、このような動きは理性に反しない、なぜなら獣は理性を持たないからだ。悪魔においては,然而、これらの情動は理性に反し、したがって動揺を構成する。人間において、これらの動揺は不幸と完全な知恵の欠如から生じる。神々は幸福であるため、それらから自由である。したがっていく、悪魔は不幸な動物であるため、人間のように動揺に従う。アウグスティヌスは、本当の宗教が人間を悪魔を alike にするまさにその堕落から解放することを目指しているのに、宗教的に悪魔に自分を服従させることは狂気であると論じる。彼は、本当の宗教の命令——怒りを禁じ、贈り物への偏りを禁じ、敵への憎しみ禁じる——と、アプレイウスが描述した悪魔の行動を対比させる。人生において異なる者であることを desire する beings を崇拝することは 至高の愚行です,因为 宗教の最高義務は崇拝される者を倣うことだからです。

次にアウグスティヌスは悪魔の媒介という概念を批判する。アプレイウスとその学派は、神が人と性交するという前提に基づき、悪魔が空中にあって人の祈りを神に運び、神の答えを人に返すと言われている。アウグスティヌスはこれをばかげたことだと思う。なぜ善い神々は、魔術の犯罪や舞台の猥褻を好む邪悪な悪魔を通してのみ人と相交わるのだろうか。清浄で无辜な人が神々の好意を求めていながら、その人が憎むものを愛する存在の媒介を必要とするとされている。アウグスティヌスは、人間の慎みは恥ずべきことが神々に喜ばれると思うべきではないと論じ、詩人禁止に関するプラトンの言葉を再び引用し、劇的な虚構を好む悪魔に対する証拠とする。

悪魔に依存する魔術行為の不敬虔さを扱うにあたり、アウグスティヌスは魔術に対する厳しい法的罰則を指摘する。もしこれらの術が神聖で敬虔なものであれば、法によって罰せられることはない。彼はウェルギリウスと十二表法を引用し、魔術は罰せられるべき犯罪と見なされていたことを示す。彼はまた、異教の裁判官の前で魔術の罪に問われたアプレイウス自身が、これらの術の実践を否認し、それらには縁がないことを確認する防御演説を行ったことを指摘する。もしアプレイウスがこれらの術が神聖なものであると本当に信じていたなら、キリスト教の殉教者が死に直面して信仰を告白したように、告白し、それによって栄光を示したであろう。むしろアプレイウスは起訴内容を否定することで無実を証明しようとした。それはこれらのことが無実に行うことのできないものであることを暗に示している。アウグスティヌスは矛盾を強調する。アプレイウスは悪魔が神に祈りを呈するために不可欠だと主張しながら、その業は避けられなければならない魔術的技術である。彼は悪魔が善い神々に呈する祈りとはどのようなものなのか問う。魔術的な祈りなら、善い神々は受け入れない。法的な祈りなら、そのような媒介者は必要ない。さらに、悔い改めた罪人が魔術について許しを求める場合、罪をそそのかした悪魔のとりなしでそれを受けることができるのだろうか。アウグスティヌスは、悪魔は自分自身の許しを求めることは決してないと論じる。彼らの傲慢さが悔い改めに必要な謙遜を妨げているからである。

次にアウグスティヌスは、善い神々が人よりも悪魔相交わることをより好むのかと問う。神が祈願し、悔い改め、または徳のある人と相交わることを拒みながら、傲慢で欺く悪魔相交わるという考えを彼は嘲る。詩人を追放したり魔術者を罰したりするような様々な状況で、神々はその人を避けながら、それと反対のことを促進する悪魔在身边に置かれるとされている。アウグスティヌスは、これが神々にふざわしくない最も切迫した不合理であると論じる。

彼はこの媒介の所谓的必要性について検討する。神々が人間の事柄を気にかけていながら、遠距離のために地上のものを知らず、空中の悪魔にIntelligenceをもたらしてもらう必要があるという主張である。アウグスティヌスはこれを忌まわしい誤りであると呼ぶ。もし神々が肉の障害なしに心を感知できるなら、使者も必要ない。もし肉体的指標に依存するなら、悪魔によって欺かれる可能性がある。もし神性が欺かれることがないなら、人間の行為について無知でありえない。アウグスティヌスは悪魔が神に何を知らせるかについてジレンマを提示する。プラトンの禁止を報告しながら、自分たちの舞台的兴趣への渇望を隠すのだろうか。両方を隠すのだろうか。両方を報告するのだろうか。それとも神々を擁護するプラトンの言葉を隠しながら自分たちの邪悪さを報告するのだろうか。アウグスティヌスは、これらの選択肢のいずれも神々について不敬虔な結論に至ると論じる。神々が真理を知っていながら依然として悪魔を媒介者として行動させるなら、彼らは悪の共犯者である。知らなかったなら、彼らは真の神々ではない。したがって、これらの選択肢のいずれも選ぶことはできず、悪魔が使者として行動するという意見は完全に退けられなければならない。

むしろアウグスティヌスは、悪霊は害を与えることに熱心な霊であり、義からかけ離れており、傲慢にふくれ上がり、欺瞞に精通していると主張する。彼らは天上の高处から犯行のために打ち落とされ、刑務所のように空気の中に住んでいる。彼らは人間より優位に立たず、人間のほうが信心と真の神への希望によって悪霊を凌駕している。悪霊は不適切な人々を支配し、偽りのしるしによって彼らの神性を信じ込ませ、あるいは神であると説得できない場合には使者になりすます。

次にアウグスティヌスは、異なる見解を持っていたエジプト人ヘルメス・トリスメギストゥスの証言を導入する。ヘルメスは 至高の神によって造られた神々と、人間によって造られた神々を区別した。後者を目に見える触れられる像——彫像——として記述し、見えない霊がその中に特定の術によって招かれて宿るとした。これらの霊には、名誉と引き換えに害を与えたり欲望を満たしたりする力がある。ヘルメスはこれを神を造る術と呼び、最高主が天上の神々を造ったように、人間は神殿に宿る神々を造ると述べた。これらの彫像には生命が吹き込まれ、感覚を持ち、未来を予見し、病気を治したりもたらしたりすることができると彼は主張する。しかしヘルメスはまた、エジプトの礼拝が全て無になり、彼らの聖なる奉仕が空虚であることが判明する時が来ると予言する。アウグスティヌスはこの預言をキリスト教の興隆——これらの虚偽の像を倒しつつあるもの——と同一視する。ヘルメスがこの未来を悲しみを持って語っているのに対して、神の預言者たちは偶像の滅亡を喜びを持って語っていたことを彼は指摘する。アウグスティヌスは、ヘルメスは霊に動かされて自らの祖先——真の神への礼拝로부터の不信心と嫌悪によってこの術を発明した——のエラーを告白しつつ、同時に悪霊の影響を受けてそのエラーの破壊を嘆いたと論じる。彼はヘルメスの悲しみ深い預言を、キリストにおいて真の神を認めた預言者たちや使徒たちの喜びと対照させる。

アウグスティヌスは、ヘルメスが祖先が神々の知識において「大いに誤り」、不信心と神への奉仕への不注意によって神を造る術を発明したことを明示的に告白したと強調する。エラーと不信心がこれらの慣行を定めたのなら、真理、信仰、回心は正当にそれらを廃絶している。アウグスティヌスは、一人がエラーであると告白する宗教の破壊を嘆くことは不敬虔であると論じる。彼は、この悪霊への隷属はエジプトだけでなく全世界で打ち破られており、真の宗教が主の家を建てていると指摘する。彼は諸国民の神々は皆悪霊であると宣言する詩篇を引用し、教会の「新しき歌」を古い迷信と対照させる。

アウグスティヌスはさらに、ヘルメスがエジプトの地が墓所と死者に満ちると嘆いた問題に取り組む。彼は異教徒がしばしばキリスト教徒を墓所における死者の礼拝だとして非難するが、これを彼ら自身の神殿における神々の礼拝と対照する。しかしアウグスティヌスは、異教徒の文献自体が彼らの神々の多くが死後に神聖な栄誉を捧げられた以前の人間であったことを認めていることを示す。ヘルメス自身が、エスキュラピウスとメルクリウスは神として礼拝された人間であり、彼らの身体は墓所に横たわりながら、「より良き部分」は天に昇ったかまたは人間を助けると信じられたことを証言している。アウグスティヌスは、こうしてヘルメスは土地が既に神として礼拝される墓所と死者に満ちていたことを告白することを余儀なくされたと論じる。悪霊はヘルメスを通じて嘆いていた,因為他们预见了自身的惩罚以及对其崇拜者统治权的丧失。

最後に、アウグスティヌスは殉教者に捧げられるキリスト教的な栄誉の性質を明確にする。殉教者のために神殿を建立したり、祭司や犠牲を任命したりしないと強調する。殉教者は神ではないからである。殉教者の神はキリスト教徒の神である。墓前で捧げられる栄誉は、聖なる人々への記念であり、死者に捧げる犠牲ではない。墓前で犠牲が捧げられるのは唯一神に対してであり、殉教者の勝利に感謝し、模範を求める者である。一部のキリスト教徒が食べ物を持ち込む場合でも、それは殉教者の功績によって聖別され、貧しい人々と分かち合うためのものであり、殉教者に犠牲として捧げるものではない。アウグスティヌスはこれを異教の儀式と対照する。異教の儀式には、多くの場合、彼らの神々の恥ずべき犯罪が伴う。それは、彼らが人間のときに犯した実際の犯罪か、悪魔を喜ばせるために捏造された犯罪かのいずれかである。彼は結論として、死後に祝福な人生があるからという理由で悪魔が崇拝されるべきだと考える賢明な人はいないとし、以下の書で一部の悪魔は善であり崇拝に値するという見解を検証すると予告する。

知的能力を持っているにもかかわらず、悪魔は真の祝福に必要な愛徳を欠いているため、適切な仲介者となれないことを確立した後、アウグスティヌスは今、プラトン主義の哲学者たち自身が提起した異論に対処する。異教徒たちは、善なる悪魔が不死の神と死すべき人間の間の中間的地位を占め、人類を神聖なものから切り離す広大な溝を埋める仲介者として機能すると主張していた。この立場が放置されれば、アウグスティヌスの悪魔の執り成しの退けを掘り崩すように見えるかもしれない。しかしアウグスティヌスがアプレイウスの証言とストア学派および逍遥学派の哲学的枠組みの慎重な分析を通じて示すように、不死か死すべきか、情念があるか情念がないかに関わらず、いかなる悪魔も人類が求める祝福を与えることはできない。プロイノスの悪魔の本質とその死亡率との関係に関する見解はこの点をさらに明確にし、悪魔の最も洗練された哲学的理解でさえ、それを真の仲介者の地位に高めることはできない。正しくここで、神の完全性と人間の脆弱性の間の空間で、真の仲介者であるイエス・キリストがご自身の独特で代替不可能な役割を啓示される。

先の書において、アウグスティヌスは悪魔が数千の方法で邪悪な霊として現れたため、悪魔の崇拝は完全に拒否されなければならないことを確立した。しかし今、彼はプラトン主義者や他の哲学者たちが提起したより精巧な異論に注意を向ける。これらの思想家たちは、神々は完全に善であり悪を行う能力がないと主張しながらも、悪魔と呼ばれる不可視の霊の中に区別を置いて、一部の悪魔は疑いなく邪悪である一方、他は善であり、高められた神々と死すべき人々の間の仲介者として必要な機能を果たすと主張する。神々は人間との直接的な交わりには高すぎて清いと見なされるため、これらの善なる悪魔が祈りを上に運び、祝福を下にもたらすとされている。アウグスティヌスはこの区別が虚偽であり、哲学者たちが善い也罢悪也罢如何评价に関わらず、いかなる悪魔も人間に真の祝福を与えることはできず、この務めは唯一イエス・キリストに帰するものだと証明すると約束する。イエス・キリストは神性と死亡率を一つにする真の仲介者だからである。

アウグスティヌスは、ゾークラテースと神々の本性について論文を著したプラトン主義哲学者アプレイウスの証言を分析することから検討を始める。アプレイウスは悪魔に空気体を与え彼らの理性性を認めながらも,幸福を構成しうる霊的徳を彼らに帰していない。むしろ、アプレイウスは悪魔の心が激烈で嵐のような感情によってかき乱されていることを認めている。彼は明確に、悪魔が哀れみ、憤り、悲しみ、喜びを人間と同じ精神的動揺とともに経験し、天上の神々が享受する平静から遠く追いやられていると述べている。アウグスティヌスは、この記述は悪魔を優れた仲保者たりうるものから除外すると論じる。知恵ある人間もまた、最初は印象に支配されながらも、理性と徳によってこれらの情的動揺に抵抗しようと努める。しかし悪魔は、嵐に揺れる海のような心を持ち、情熱に完全に奴隷化されていると記述される。彼らは性格において邪悪で愚かな人間に似ており、実際にはさらに悪く、不義の中で老い朽ち、罰によっても改悛不可能になった。

これらの情熱の本性をさらに明確にするため、アウグスティヌスは、精神的な感情に関するストア派と逍遥学派(アリストテレスの追随者)の間の哲学的論争を検討する。ストア派は知恵ある人間はこれらの情熱に支配されないと主張し、逍遥学派は知恵ある人間も穏やかな形でそれらを経験すると信的る。アウグスティヌスはアウルス・ゲッリウスの記述を引用して、この意見の相違は実質的というよりむしろ言葉上のものたと示唆する。彼は、難破時に恐怖で青ざめたストア派哲学者の物語を語り起こす。後に問い詰められたとき、その哲学者は、知恵ある人間は恐怖の最初の身体的印象を防ぐことはできないが、精神的にはそれに同意しないと説明した。このようにして、知恵ある人間の心は、体が危険に反応する場合でも、理性において堅固なまま留まる。アウグスティヌスは、両学派とも、知恵ある人物の理性的な心が悪徳に支配されていないという点で本質的に一致すると結論する。対照的に、アプレイウスは悪魔に、情熱のハリケーンによって揺さぶられる心を帰し、彼らの最高の能力は悪徳に奴隷化されていることを示唆する。これは、彼らが人間を純粋さに導くのではなく、欺瞞と誘惑に従事している。

アウグスティヌスは、この悪魔的状态をキリスト教の徳と対比させる。キリスト教倫理学においては、問題とされるのは魂が情熱を経験するかどうかではなく、なぜそしてどのような目的のために経験するかである。悪しき行いを是正するための怒り、苦痛を和らげるための悲しみ、生命を保存するための恐怖は、理性に従い正義の目的へ向かうとき、非難されるものではない。弱さを持たない聖なる天使たちも、聖書においては、彼らの行動が私たちにおいてそのような感情によって動機づけられたものに似ているとしても、怒りや哀れみの比喩で描述されているmdash;彼ら自身は完全に動揺していない。しかし悪魔は、彼らを不安定で信頼できないものにする乱流とした感情によって駆り立てられている。アウグスティヌスは、詩人たちが激情的な情念で神々が争うという物語は、実際には神々ではなく悪魔の真の記述であると、プラトン主義者自身が認めざるをえないことを指摘する。詩人たちは人間の病的状態を神々に帰すことで真の神々を中傷しているが、神々の偽りの名を持つ悪魔を正確に記述している。

アウグスティヌスは次に、アプレイウスの悪魔定義の厳密な論理的分析へと進む。アプレイウスは悪魔を、理性的で、情念に従い、肉体は空中に属し、永遠続く存在として定義する。アウグスティヌスはこの定義を解体し、これらの存在の悲惨な状態を示す。彼はアプレイウスが人間を死すべき存在かつ悲惨として、神々を不死かつ至福として記述していることに注目する。定義によれば、悪魔は人間の情念と、神々の不死の肉体(ただし魂ではなく)を共有している。アウグスティヌスは、この組み合わせが「永遠の悲惨」または「悲惨な永遠」の状態をもたらすと論じる。彼は、生けるものの主要な部分は魂であり、肉体は劣った部分であると指摘する。にもかかわらず、これらの仲介者たちは、劣った部分(肉体)によって神々に結ばれ、主要な部分(魂)によって人間に結ばれている。いわば頭を下に逆さまに吊るされており、仕えるものによって天上の神々に結ばれ、支配するものによって悲惨な人間に縛られている。これは調和的な仲介ではなく、グロテスクな逆転である。アウグスティヌスはプロティノスを引用し、父が人間の絆すなわち肉体を死すべきものにして、死が彼らを苦しみから解放するように慈悲を示したと言った。しかし悪魔はこの慈悲に値しないと裁かれた。彼らは永遠に肉体に縛られており、少なくとも死を通じて解放される希望を持つ人間よりも惨めである。

アウグスティヌスは次に、プラトン主義者が人間の本質は死後に悪魔になる다고主張するのを扱う。彼はこれを、道徳的破滅へと人間を引き込む渦巻きとして退ける。なぜならば、それは死後に神聖な栄誉を害をなす精霊として邪悪な人々が望むことを獎励するかもしれないからである。プラトン主義神学の論理構造に戻り、アウグスティヌスは両極端を区別する三つの性質を調べる:神々は高揚、永遠性、至福を持つ;人間は低さ、死すべきこと、悲惨を持つ。悪魔が真に中間の存在であるためには、これらの性質において中間の立場を保持しなければならない。彼らは空中の肉体を持ち、これは天上のものと地上のものの中間的位置である。しかし他の性質に関しては、彼らは至福か悲惨か、死すべきか不死かのいずれかでなければならない。アプレイウスが彼らが永遠であると主張するなら、人間から死すべき性を受けることはできない。したがって中間の立場を維持するために、彼らは人間から悲惨を受け取らなければならない。したがって、プラトン主義の定義は論理的に悪魔が不死かつ悲惨であるという結論を強制する。彼らは「善い悪魔」(エウダイモン)ではない。なにしろ、もし彼らが善くて永遠であれば 至福であり、最も本質的な点において神々と区別がつかなくなり、中間の性格を失うからである。至福の不死者と悲惨な死すべき者の真の仲介者は、死すべきかつ至福であるか、または不死かつ悲惨であるかのいずれかである必要がある。悪魔は後者であり、したがって人間を至福へと導くことはできない。

これによりアウグスティヌスは論証の中心へと至る。すなわち、真の中保の同定である。かれはすべての人類が死すべきものであり哀れな存在であるとすれば─いかにもそのとおりだろう─、中保は人であってくれるだけでなく、神でもなければならないと論じる。この中保は、死すべき状態を受け入れて人間に同化されなければならないが、死すべき状態にとどまり続けてはならない。哀れな状態にとどまることになるからである。中保は至福を所有して神に同化されなければならないが、近づきがたいほど遠くにある存在でもあってはならない。イエス・キリストはこの条件に完璧に合致する。キリストは死すべき者となり、肉体の弱さを受け入れたが、その神性を弱めることはなかった。そしてキリストはその肉体を死から復活させ、死すべき状態を消滅させた。移ろいやすい必死と不変の至福によって、キリストは鴻溝を橋渡しする。善い天使たちは中保となれない。すでに至福であり不死であるため、哀れな凡人と同じ性質を持たないからである。邪悪な悪霊は、ある意味では中保となることができる。神々のように不死であり人間のように哀れな者としてであるが、彼らはこの立場を使用して人間を神から切り離し、団結させるのではなく分離させる。善い中保であるキリストは、彼らに反対する。キリストは、ご自身の死の謙遜さと至福の慈悲深さによって彼らの権能を破壊し、信者の心を清め、悪霊の不清浄な支配から彼らを解放した。

アウグスティヌスは、神々りが人間と接触するだけで汚染されると主張するプラトン的概念を論駁する。プラトーン自身が記述しようとして苦心した至高の神が、賢者の心に臨めるのなら、なぜ下位の神々りが人間と交わることができないのかと彼は論じる。見える神々─星や天体─は地上を照らし、人間に見られるが、汚れていないと彼は指摘する。太陽の光線が大地に触れても汚れないなら、神が人間と交わることのできない理由がない。神々の汚染を防ぐために悪霊が必要だという考えは不合理である。悪霊が人間によって汚染されるなら、人間を清めることはできない。汚染されないなら、プラトン主義者たちが接触によって汚されると主張する神々りよりも優れていることになる。アウグスティヌスは、真の神性が肉体に汚染されることはありえないと断言する。降誕によって証明されたごとくである。こうして至福への道は、それ自体不清浄な空中の悪霊を通るのではなく、すべて汚染から私たちを清める、清めきれない神を通るのである。

次にアウグスティヌスは悪霊の知譓の語源と性質を探求する。「悪霊」という言葉はギリシャ語で「知譓」に由来する。しかし使徒パウロは「知譓は人を高ぶらせるが、愛は人を築き上げる」と述べる。悪霊は知譓を持っている─実際に、多くの人間を超えた時間的な事柄と霊的な本性についての知譓を持っている─が、彼らは愛を欠いている。この愛のない知譓は傲慢へとつながる。彼らは真の神だけに捧げるべき神への敬意と宗教的奉仕を要求する。聖書は、悪霊がイエスを認め、恐れながら叫んだことを記録している。「ナザレのイエス、我々に何の係わりがあるがあるのか。時が来前に我々を滅ぼしに来たのか。」悪霊はキリストの大能を知っていたが、その義を愛さなかった。アウグスティヌスはこれを聖天使の知譓と対照させる。天使たちは神の言葉において永遠の真理を見つめ、神的爱に満ちて、時間的な事物を蔑む。天使たちは神の知恵において時間的な事象の原因と原理を知っているが、悪霊はしるしを通じてのみ将来を予見し、しばしば欺かれる。天使は決して欺かれず、悪霊はしばしば欺かれる。

書の最終節において、アウグスティヌスは礼拝の用語法について論じている。彼は、プラトン主義者たちが善なる霊を「悪霊」ではなく「神々」と呼ぶ方を好むかもしれないことを認め、また聖書自体がかの神々」という用語を聖なる天使たち、さらには正しい人々にさえ適用していることに注目する。例えば、神が「あなたたちは神であり、すべてあなたたちは至高者の子である」と仰せのように。しかしながら、アウグスティヌスは「悪霊」という称号は聖書において決して良い意味では使われず、悪しき霊のために温蔵されていることを主張する。彼は、実体が明確であるときに名称について争うことは無益であると論じる。祝福され不死である霊たちは、神々と呼ばれようと天使呼ばれようと、自分が宗教的礼拝を受けることを欲しない被造物である。彼らは人間をただ創造者だけを礼拝するように導く。一方、悪霊たちは邪悪な仲介者であり、失った至福を人間にねたみ、人間を真理の道から逸らそうとする。アウグスティヌスは、唯一まことなる神の礼拝だけが永遠の命への唯一の道であると結論し、続く書において、真に祝福された霊たち——神々と呼ぼうと天使と呼ぼうと——は礼拝がただ神だけに与えられることを望んでいることを示す準備をしている。

キリストを人間を神へと和解させる有能力な唯一の仲介者として確立し、神への礼拝への長年のパートナーシップを主張してきた悪霊たちの道徳的腐敗を実証した後、アウグスティヌスはこの論証の自然な帰結に直面する。すなわち、偽りの仲介者が退けられるならば、正当な礼拝は誰に向けられるべきか?この問いにより、アウグスティヌスは第十の書において至高の礼拝自体の本質を考察する。神に仕える聖なる天使たちが自分たちのために犠牲を要求しているのか、それとも礼拝する者たちを自分たちを超えて唯一まことなる神へと導くのかを調査するのである。彼は真の霊的奇跡を欺瞞的な秘術をさらに区別し、救いへの普遍的道としてのキリストを強化した後、この記念碑的著作の残りの書を占めることになる二つの都の起源、発展、そして最終的な運命という歴史的軌道へと注意を向ける。

アウグスティヌスは『神の国』第十の書を開き、全体の議論を活性化する根本的問いを確立する。すなわち、至福へと導くその至高の礼拝は誰に支払われるべきか?彼は、すべての理性的存在が幸福を欲するが、哲者たちは真の至福を構成するものとその獲得方法について无尽に論争してきたことを観察する。様々な学派の中で、プラトン主義者たちは特に注目に値する。なぜならば、彼らは万物を創造した唯一神の不変の光への参加に魂の幸福が完全に依存することを、他の誰よりも明確に認識していたからである。彼らは天使も人間も同样的神的な源から至福を得なければならないことを理解していた。しかしながら、アウグスティヌスは致命的な矛盾を指摘する。すなわち、この深遠な神学的洞察にもかかわらず、プラトン主義者たちは大衆の誤謬に妥协し、複数の神々の礼拝を許可または甚至促進し,某些 경우에는悪霊への犠牲を唱導した。この矛盾が本書の中心的問いを提起する。祝福され不死である霊たちは私たちの礼拝に関して何を望んでいるのか?私たちを愛し私たちの永遠の幸福を求める聖なる天使たちは、私たちに彼らへの犠牲を捧げることを望んでいるのか、それとも私たちをただ唯一神への崇拝へと導くのか?この問いへの答えは真の宗教の本質を変え、救いの道を明らかにする。

この問題を正確に扱うために、アウグスティヌスはまず礼拝に関する用語を確立する。彼は、ラテン語には唯一神にのみ行われるべき最高の崇拝を十分に表現する単一の用語が欠けていることを説明する。聖書で使用されるギリシャ語「latria」は、神にささげられる独特の奉仕を指し、人間の主人に用いられる一般的な奉仕「douleia」と区別されなければならない。一般的なラテン語の用語は不十分である。「cultus」は人間に払われる名誉、畑の耕作、さらには都市の居住にまで広く適用される。「religio」も同様に不十分であり、これは社会的絆と人間関係を記述するものである。「pietas」は父母への義務や慈愛の業にまで及ぶ。それゆえアウグスティヌスは、神にのみ属する礼拝——礼拝者を神の性質を共有する者にようにする奉仕——を示すためにギリシャ語の名称を採用する。この定義は即座に含意を持つ。聖なる天使たちが本当に私たちを愛し、私たちの幸福を望んでいるならば、彼らは自分たちではなく、彼ら自身の祝福の源へと私たちを導かねばならない。神を礼拝しない天使は、最高善から奪われた惨めな者となるであろう。神を礼拝する天使は、神に代わって神にのみ属する敬意を受けることを望むことは不可能である。

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