『アンジュー王統下のイングランド 第1巻・第2巻』 cover
アンジュー家

『アンジュー王統下のイングランド 第1巻・第2巻』

ケイト・ノーゲイトによる二巻本の歴史概説書であり、アンジュー朝の国王たち——ヘンリー2世、リチャード1世、ジョン——が1154年から1216年の間にイングランドの法律・政府・大陸での勢力をいかに変革したかを追い、フランスにおける帝国の崩壊と1215年のマグナ・カルタ調印に至る経緯を描く。

Norgate, Kate · 2022 · 12 min

ヘンリー2世の治世の中心的な対立は、1162年にカンタベリー大司教に任命し教会を支配下に置こうとしていたトーマス・ベケットとの確執だった。ノーゲートは、ベケットが裕福な王室大法官から禁欲的な教会擁護者へと変貌したことを突然の奇跡的な豹変だと描写する後世の物語に反論し、彼の敬虔さは以前の役職時代にも明らかだったと主張している。しかしベケットはすぐに教会の独立性を強く擁護するようになり、聖職者の免責特権と王室の慣習をめぐる一連の衝突を引き起こした。1164年1月のクラレンドン会議はベケットに教会特権を制限するクラレンドン憲章の受け入れを強制しようとしたが、彼は拒否し、1164年秋のノーサンプトン会議で侮辱罪の判決を受け、フランスへ亡命した。この紛争はすぐに欧州外交の問題となり、ルイ7世やローマ教皇庁が巻き込まれ、ベケットはキリスト教世界全体で広く同情を集めた。ヘンリー2世の「このやっかいな聖職者を始末してくれないのか」という怒りの言葉が、4人の騎士を1170年12月29日にカンタベリー大聖堂でベケットを殺害させる引き金となった。この殉教はヨーロッパ全体に衝撃を与え、ベケットは1173年に列聖され、ヘンリー2世は1174年に彼の聖堂で公開の忏悔を行い、教会と和解した。

その一方でヘンリー2世は帝国拡大に目を向け、1171年にアイルランドへの初のイングランド侵攻を開始した。これは1166年にレンスター王ディアマイト・マクマラがライバルへの対抗を支援してほしいと要請した後、島の征服を始めたアングロ・ノルマンの冒険者たちに対する支配権を確立するためだった。この侵攻によりアイルランドはイングランド王冠の支配下に入り、ヘンリー2世の軍勢はその夏にノルス・ゲール連合艦隊を破り、自身の支配権を確固たるものにした。

1173~1174年の大反乱は、ヘンリー2世の生存する3人の息子(若王小ヘンリー、リチャード、ジェフリー)、イングランド貴族層、スコットランド王権、フランドル伯を反逆の側に糾合し、彼の行政体制の強さを試すことになったが、最終的には彼の勝利に終わった。ヘンリー2世が大陸で戦っている間、イングランドにいた彼の代理人たちはスコットランドの侵攻を撃退し、フランドルからの増援を破り、貴族の反乱を鎮圧し、ヘンリー2世をかつてないほど確固たる支配地位に留まらせた。1170年代後半までに、彼の帝国はアイルランドからピレネー山脈まで広がる、西キリスト教世界で最も強力なものとなっていた。

しかし、家族間の対立はすぐにヘンリー2世の権威を侵食した。憲法実験として共同统治者に戴冠した若ヘンリーは、父の味方を包囲中に1183年6月に突然死去し、生存する長男はリチャードだけとなった。ヘンリー2世、リチャード、そして1186年に死去したジェフリーの間の勢力争いは激化し、フランス王フィリップ・オーギュストはこの分裂を利用して、リチャードと同盟を結びヘンリー2世に対抗した。1188年夏までにアキテーヌで公然とした衝突が発生し、フィリップはアンジュー家の領地の接収を開始した。1189年夏のわずか3週間で、ヘンリーは生誕地、大陸における核心地帯、そして権威をすべて失い、1189年7月6日にシノンで屈辱のうちに死去した。その時、リチャードとフィリップが彼に迫っていたのである。当時の生々しい年代記に記録された彼の死は、アンジュー家最大の治世の終わりを告げた。

リチャード1世は、ジョンの裏切り——ヘンリーに対してフィリップと共謀した企み——がジョンの王位請求権を破壊したため、異議なく父の後を継いだ。後に獅子心王として知られるリチャードは、ウェストミンスターで戴冠した後、1190年に直ちに第三回十字軍に出発し、イングランドをエール司教ウィリアム・ロンチャンプの手に委ねた。ロンチャンプは大法官、司法長官、教皇使節の三つの職務を兼ねていた。ロンチャンプの権威主義的な統治は貴族の反乱を引き起こし、1191年秋までに彼は打倒された。リチャードの十字軍は、フィリップ・オーギュストや他のキリスト教指導者との対立によって損なわれ、1192年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に捕らえられ、15万マルクの身代金を要求された。この身代金はイングランドの資源を枯渇させ、前例のない課税を必要とした。彼は1194年に解放されると、捕虜生活中にフィリップに与えた譲歩を直ちに拒否し、失った大陸の領地を取り戻すために戦い、軍事建築の傑作としてシャトー・ゴアールの城塞を建設して最期の年を過ごした。彼は1199年4月にシャリュを包囲中に弩の傷で死去し、その死は偉大な戦士王の喪失としてヨーロッパ全体で悲しまれた。

リチャードの死を契機に、アンジュー帝国は急速に崩壊した。弟のジョンが帝位を継いだが、ノルマンの継承法では甥のブルターニュ公アルテュールの主張の方が優先され、フィリップ・オーギュストはアルテュールの主張を支持した。1200年10月にアングレームのイザベラと戴冠したジョンだったが、この戴冠は大陸領の崩壊を覆い隠すに過ぎなかった。1202年に失地回復を目指した遠征は惨敗を喫し、ジョンが当てもなく優柔不断にしている間にフィリップはノルマンディーを席巻した。1203年末のシャトー・ガイヤールの陥落は決定的な転機となり、フィリップによるノルマンディー征服への道を開いた。1204~1205年までにジョンは大陸から受け継いだ領土の大半を失い、失地回復のための遠征はいずれもやる気のないもので、ことごとく頓挫した。

ノーゲートの著作の終盤の章々では、1170年から1206年までのアンジュー期の文化的・制度的遺産を辿っている。ベケットの殉教はイングランドの宗教生活を根本から変え、民衆の敬虔な信仰と修道院改革の波を巻き起こした。この時代には歴史著述が花開き、ジェフリー・オブ・モンマスから受け継がれた『ブルト』の伝統、聖ダビッド座の独立を訴えて活動したウェールズのジェラルド(ジラルドゥス・カンブレンシス)の著作、オックスフォードに拮抗する大学としてケンブリッジが台頭したことなどが挙げられる。ロンドンの市政は次第に自治権を拡大し、1191年に共同体が設置された。一方、1185年のアビンドン慣習録のような荘園調査は、農村経済の漸進的な変化を記録している。ノーゲートの著作は、1170年のベケット暗殺から1216年のジョンの死までの期間を網羅した総合索引をもって締めくくられており、アンジュー世界の政治、教会、文化史の全容、そしてヘンリー2世が生涯をかけて築き上げた広大な大陸帝国の終焉を記録している。

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